わすれもの。sky*
「大丈夫か?」
 ライアンの声で我に返った。爆ぜる炎から時々散る火の粉が昇天するのを無意識に見つめながら斜め後ろにいるライアンに「大丈夫」と結構大丈夫そうでもない声で僕は答えた。
 もうすっかり夜の帳(とばり)はおり、仲間の半分は眠りについている。今起きているのはライアンとマーニャ、トルネコ。不寝(ねず)の番はマーニャ。個人的に起きてるライアンとトルネコは武器を磨いている。
 僕は……寝れない。
 背もたれにしている大木に後頭部をぶつけて夜空を見上げる。
 清夜(せいよ)に輝く星雲の中には朱鷺(とき)色の髪を揺らして歌う彼女はいるんだろうかとふと思う。
 いるかいないか、どちらも確かな話ではない。なんとなくうろんげに思っただけで……、
「ちょっと聞いてよレイ!」
 唐突に名前を呼ばれておかげで跳ねた心臓を抑えながら振り返る。いつもたくさん付けている銀のアクセは外し、髪をポニーテールに結っているのは何の気分転換なんだかをマーニャに切り出せない勢いで(元々あまり切り出す気は無いけど)彼女は喋る。「トルネコが夜食のクッキー独り占めにするのよ!レイからも何か言ってやって!」
「何言ってるんですかっ」とトルネコがマーニャの後ろから声を張り上げた。「これはわたしの貴重なお金で払った自前で――」「何よ。ケチケチしないで一個くらい良いじゃない」
「あーちょっとちょっと」と情けない声で二人に呼びかけた。口争い激しい二人を引き離し、人差し指を立てる。「そんなに騒ぐと皆が起きちゃうだろ」
「だったらレイから何か言ってよ」即座にマーニャが言葉を切り返してきた。さっきよりも小さな声だったけど不満爆発の声で。
「そ、そうですよ、レイさんからマーニャさんに何か言ってやってくださいよっ」マーニャと似たり寄ったりの声と表情でトルネコが迫ってきた。二人とも身を乗り出して来てるのがきゅ、窮屈なんだけど。
 ……下手なこと言ったらぶっとばすという殺気は普段からマーニャのほうが上だが、今はいつも以上にありえない殺気が見えるような。
鬼女(きじょ)だなぁ。
 まあ……自分の身の安全を最優先としてプラス半分冗談で「トルネコ、一個くらいマーニャに上げれば?」
「ええ!?」
「よねよね!ほら、一個で良いからさっ」
 トルネコの裏返った声とマーニャの勝ち誇った笑みを横目で見ながらまた喚(わめ)いて去っていく二人の声をぼんやりと聞き流す。
 一時の騒ぎになんとなく苦笑する。
 また、静かになった。そっと目を閉じればそのまま寝れそうだったけど、もう少し夜空を見ていたかったから目は閉じないようにした。
「レイーーー!」遠くからマーニャの声がした。顔を上げると「痛(いて)っ」丁度前頭部に何か軽いものがぶつかる。ぽすんと床に落ちたそれはビニールに包まれた焼き菓子だった。「それ、お礼。貰っちゃって!
「ああ、マーニャさんっ……」トルネコの貧弱そうな声がその後に続いたけど、僕はまた冗談で「ああ、ありがとう!」と言い返す。クッキーは、今すぐ食べないで懐にしまっておいた。
 まだマーニャとトルネコが言い合ってたのを微笑ましいなと微妙に思いながら、
 ただぼーっと空を見つめる。
 特に意味はない。
 意味はないけど、意味はあるように思えた。もしかすると、思っていたかったのかもしれない。
 あ、あの星。凄く明るい。
 あれは、まるで……、
(シンシアみたいだ……)
 思えば村で常に輝いて笑っていたのはシンシアだけだった気がする。村の人たちの心からの笑いを見れなかった気がする。いつも気を張っていて僕が見てないところでいつも回りに目を光らせていた。もしかしたらシンシアもそうなのかもしれなかったけど、でもシンシアはあの村で父さんや母さん以上に身近な存在だったから、話して笑い合えた印象が強かったから、それだけなのかも。シンシアの心からの笑いも、生涯見れなかったのか、もう見たのか……どっちなんだろう。
 そんなことに気付かなかったなんてつくづく馬鹿。
 膝を抱えて腕の中に顔を埋(うず)める。
(改めておんぶに抱っこだったんだな……)
 大きく息を吐いてとうとう目を閉じた。
 シンシアとか、父さんとか母さんとかスペルとか村長とか。
 頭の中に次々と浮かんでくる村の人たちは笑ってて、多分見たこともない心からの笑いで、快晴の空の手の届かない所にある太陽はいつもと同じようにこの大地に明かりを恵んでいた。
 村の中心の花畑が舞台の、バーベキューパーティ。何回かバーベキューを村の皆でやったことがある。肉を火の中に落としちゃったとか葱を焼き過ぎて墨みたいになってぼろっと崩れちゃったとか火をつける薪や枯葉を入れすぎて炎が確実に数メートル上がったりとか……。
 全部、良い思い出だ。
 楽しいことも悲しいことも嬉しいこともつらいことも、全て、
 乗り越え生きた意味と、
 刻みと、
 良い、
 思い出。
 すっと目を開けると幾千もの輝きがネイビーブルーの空を照っていた。
 シンシアだと思った星は逃げも隠れもせずにやっぱりまだそこで光っていて、その周囲の星たちも負けじと懸命に存在を知らせていて、それを見て想う自分の目から何も出ないことに僕はどこか苛立った。昼間に泣きすぎたのかもしれないと一瞬思ったけどどうでもよかった。
 何度も大きく静かな息を繰り返して視線を彷徨わせた。
 手をぎゅっと握ってもいつも剣を振るうような力は今は出なかった。こんなじゃスペルに怒られちゃう。
 地面に指を食い込ませてなぞった。昼間、シンシアの帽子を見つけたときに割れてしまった爪が痛みを主張した。
 でも別に価値もない砂いじりで気がまぎれることもなく、ふいにまた空を仰ぐ。
 涙なんて出なかった。まあ……あの日から泣かないと決めたから……それもあるから複雑な心境。
 ふとあの日のことを思い出してもう二度と触れられない感覚が宙を泳ぐ。
 いつも通りの朝だった。いつも通りの昼だった。父さんが穴場で、父さんが何年も掛けて見つけた絶好の釣りの場所で釣りをしていたのも、スペルの礼儀正しさと緊張のほぐれる瞬間も、シンシアが背中を押した衝撃もいつも通り。
 でもその日の夜の村からは何一つ命の息遣いなんて綺麗事は感じなくて。丁度こんな沈黙の夜で。
 木の葉のかすれ合う音、火の爆ぜる音もしなくてマーニャやトルネコの話す声、ライアンが剣を磨く音、ほかの仲間の寝息なんてもちろんしなくて。
 全て消え失せて全て無くなって、ただ暗い砂丘に投げ込まれたような絶望感を感じて、時折冷たい冷たい、氷以上に冷たかった颪(おろし)が灰を雪のように舞い上げ灰は舞っていった。
 血や肉、瓦礫が何事もないように平然と飛び散っていた、そして血の臭いや焼け野の臭い。鮮明に思い出せる。あの時のデスピサロの声も……。
 唐突な村の終わりだった。
 それを見た瞬間の、あの声を枯らした時の気持ちは言い表せない。村にあった惨状を全て受け入れられなくて、
 神様を呪った。運命を呪った。宿命を呪った。使命を呪った。
 ――勇者なんて肩書きはいらなかった。
 突っ伏して、泣き崩れて、何も出来なかった自分。
 自分の弱さも受け止められなくて、ずっと悔いた。悔いて悔いて、ただ今を生きてきた。今に一生懸命だった。
 ……また空を仰いだ。こうやって色々考えても結局は空は変わってない。
 きっとあの日から……僕が生まれる前から……この星に、生命が生まれる前から……。
「……レイ殿。レイ殿」
 渋い声にそっちを振り向いた。剣を磨き終えたのかライアンは鞘の中に慎重に剣を収めていた。
 首を傾げて何かと問うとライアンは頭を掻いてちょっと恥ずかしそうに言った。「その……俺はたくさんの大事な人を失ったことはないから無用な同情は避けたいと思うのだが……ま、まあでも……だな……なんて言ったらいいか判からぬが、……」
 そこでライアンの口が止まった。んーと唸ってしきりに考えてくれているのが良く判かった。
 寡黙な彼なりの、慰めなのかもしれない。
 そう思うとちょっと笑いが漏れてしまいそうになったけど堪えた。ライアンに悪いし……。
 それに、まだ笑いたい気分じゃ、なかった。
「ありがとう、ライアン」
 僕は柔和に笑った。ライアンは照れ笑いで返してくれた。まともに言えなくてすまんな、と彼は付け足した。
 笑いが止むと、木の葉が囀(さえず)った。ライアンは空を見上げて、僕もそれに釣られてまた空を見た。
「……昔だけどな」その囀(さえず)りに消えてしまいそうに同化したようなライアンの声に顔を上げた。「このことは、話したことはあると思うんだが……」
 ライアンの声も一時風も止んで静かになる。冷たい颪(おろし)の気まぐれに時々鳥肌が立つ。
「……昔、もう何年も前。仲間が、死んでな」
 仲間が一緒だった時もあった――出会った当初に今まで孤高の旅をしてきたのかと訊いた時に帰ってきた言葉が愁いを帯びてそう言ってた。
「俺よりも小さくて色んな苦労してきたのに、いつも笑う奴だったんだ。俺が守りきれなくて怪我をさせてしまった時も、大丈夫だって笑ってた奴だった」
 ノイズにまみれた声がまた風に流れた。
 笑ってたという言葉にどきりとする。さっきまで笑ってた村の人たちを想像してたから……。
「だから、俺も気が緩んでたのかもしれない。つらいことが合っても揺るがないその笑いに気がついたら支えられていてな……。重大なミスを犯したことに俺は気付かなかったんだ」
 ライアンの言葉に同じ罪の意識を感じた。僕は……村の人達の笑顔に安心して、いつまでも続くと思ってた平穏な時間。今日がいつまでも今日として繋がっていくと思っていた時間。
 ライアンが不意を突いてこっちを向いた。その顔は、微笑していた。悲しそうに、つらそうに、でも誇りを浮かべて。「最高の、パートナーだった」
 その後に自嘲的な笑いで「……と思っているのは俺だけかもしれんがな」
「そんなことないと思いますよ」
 いきり立って言ってみたものの、そうだと思う。ライアンは仲間のことを一番に守ってくれるし、僕が持てないような重い剣を圧倒的な力で振り回したりするのもまた凄いと思うし、何しろライアンは優しい。困っている人を放っておけない性分もまた尊敬させられる一面だと思う。
 ライアンは僕が勢いで発した言葉にちょっとびっくりしてたように口を開いていたけど、すぐに苦笑した。「だと……いいがな」
 ではこれでとライアンは剣を持って他の仲間が寝ている場所まで去っていった。「おやすみなさい」言葉を交し合うと、また静かになった。
 薪(たきぎ)の火は既に弱まってきている。今の主な光源は頭上の月と星。
 視線を上から前に戻し、見ればトルネコとマーニャが既に寝ていた。……ちょっと待った。不寝(ねず)の番ってマーニャじゃなかったっけ。
 ……。
(……まあいいや)
 ちょっと長くなった髪の毛を後ろに跳ね除けてちょっとポジティブに考える。
 この辺に魔物はあまり出ないし、動物達もほとんど数年前の襲撃で去っていった。
 あるのは、植物の息遣い。
 まあ、危険じゃないと言えばそうだろうな。
 はぁと大きく息をつく。ライアンの話を反芻(はんすう)させた。
 良いパートナー……か。
 シンシアは僕のことをどう思っていたのだろう。あの村にいた唯一の子供同士悪い感情は抱かないと思ってたのは僕だけなんだろうか。パートナーと思っていたのだろうか。はたまた、弟だと感じていたのだろうか。
 ……多分、弟だな。確信はないけど、パートナーだとシンシアは僕におもってくれていたという自信がない。
 膝の上に、でこを乗せる。
(何落ち込んでいるんだ、僕は……)
 シンシアの帽子を見つけて、シンシアの欠片を見つけて、浮かれていたのかもしれない。何せあの日は何も残らなかったから。きっとシンシアの首は持っていかれたから……。僕の、顔で……。
 ……駄目だ。頭が痛い。
 あの夜の臭いが自分の体にこびりついて離れない。いつも、いつも纏わり付いてくる。
 ……なんだこの感情……。
 顔、洗おう……。
 ふらりと立ち上がった。
 
 確か、こっちだった。
 何気なしに自分の間隔を信じて川を目指した。
 でもあの時と景色が違うから目算が狂う。
 それに頭痛くて吐き気がしてふらふらする。
 木を杖にするように体を支えながら、先にある木に体をもたれさせる。更に先にある木に手をついて、もう一つ先にある木に肩から倒れ掛かる。
 気を抜くと体が傾く。足元の小さな石ころだけでも今ならこけるのは楽勝だと思う。
 もとおる感覚に頭が白く、黒くなる。
 ……やば……っ。
 
「あ、起きましたか?」
 おぼつかない視界の中に誰かの顔が覗き込む。
 ここは天国とか……じゃないみたいだ。
 藍色のきっちきり切り揃えられた短髪には覚えがあるし、髪と同色の瞳もその人物のもので間違いない。丁寧な口調も、そのちょっと爽やかで柔そうな声も……、
「クリフト……どうしてここに?」
 彼の名を呼ぶ声が掠れた。今更自分の呼吸が凄く荒いことに気付いた。心臓が激しく鳴動していることにも。
 まずい……まだ頭が痛い。
 クリフトは微笑しながら「レイさんがふらふらと歩き出したのを見てたらつい着いてきちゃいました」すいませんと謝られたけど僕はクリフトがいなかったらどうなってたかを考えて助かったと思ったから、僕はごめんと謝ってそれからありがとうと言った。
 お互い一番話したかったことは話し終えて静寂する。
 ふとちろちろとさっきから耳を流れる音が意識を振り向かせた。「川……?」
「ええ、すぐそばにあったので。それに、レイさん熱があったようで。わたしが持っていたハンカチで申し訳ないです」
 僕の呟きに話のきっかけを見つけたと思ったのか、クリフトはしどろもどろながらに現状を話すクリフトを見てああそうかと思った。歩いていたときよりも体がずいぶん楽だし湯だってぐるぐるしていた感覚がほとぼりから冷めたように落ち着いている。完全ではないけれど。
 でこに乗った彼らしい灰色のチェックのハンカチを上目で見ながら重い瞼(まぶた)を閉じないように頑張る。このまま寝たら多分ろくなことが無い。
 ……起きよう。
「あ、レイさん。まだ熱もあると思いますし、さっきまで倒れてから十分くらいしか経ってませんが凄くうなされてましたし、起きない方が良いと思いますよ」
 意気に釘を刺されて何となく唇を尖らせて寝転がる。
 ……ん?うなされてた?……ちっとも思い出せない。本人は全くそんな意識ないんだけど。
 僕にとっては目を閉じて開いての瞬きをしてるような時間しか感じられない間、僕は今にもそのまま死んでいきそうなくらい苦しそうな声を出していたとかなんとか。
 僕は……何も覚えてない。墨で真っ黒に塗られたようにそこだけ欠落してる感じ。両手をハンカチの上から載せて目や顔を覆って深く考えてみるけどその尻尾さえ掴めるどころか見えやしない。
 ……思い出せない、と嘆息する。
 クリフトはそんな僕を見てから悩んでいるような悲しそうな瞳(め)で川を見つめた。
 静かで、清らかな川だった。
 昼間になれば木の枝からもれた日光が水面を照らしてとっても綺麗なんだろうな。
 ……あ、と頭の中で閃いた。
 ここ、父さんが釣りをしてた絶好の場所だ。毎日、ここで夕食を釣ってきた、父さんの釣りの場所。
 僕が母さんの弁当を渡すといつもおどけた調子の父さんはしっかりと受け取ってくれた。
 でも今は弁当を作る母さんも、夕飯を釣ってくる父さんもいない。
 漠然とそんなことを考えていたらクリフトの声で思考が戻った。
「……レイさんは記憶が無ければ良いって思ったことは……ありますか?」
 そっと、今目の前にある川の流れのようにクリフトは静かに訊いてきた。
 記憶が無ければ良い……か。
 試しに大切な人を消してみた。現に旅をしている仲間を、村の人を、僕の中から僕に関かわった人を消して、僕を一人ぼっちにしてみた。
 あのつらい日を忘れられたらどんなに楽だろう。そのときの記憶を壊して村が今でも存在し帰ってきたときにおかえりと言ってくれる人がいると信じれたら、どれ程気楽だろう。
 ……でも。
 旅に出て魔物と戦うと決めたきっかけはあの日があったから。
 二度と泣くまいと気丈に剣を振るってきたのはあの日、村の皆が死んだから。
 いらない勇者のレッテルを受け入れられたのはあの日、いつかですピサロを倒すと決意したから。
 今が、過去が、未来をつくる。
 なかったことにしてしまうのはもったいない。
「記憶はつらいものだけど……縛るものだけど、やっぱりあるべきものだと思う」
 クリフトに訊かれた時みたいに静かに結論を言った。僕の素直な気持ちをクリフトがどう受け取るか、そもそもなぜこの質問をしてきたのかは解からない僕には検討がつかなかった。クリフトだって「そうですか……」と言ったきり。
 僕は温まってきたハンカチを手で拾ってゆっくりと起き上がった。いっつー……まだ頭ががんがんする。でも吐き気とかは治(おさ)まってる。クリフトの一時(いっとき)の看病が効いたみたいだ。
「あ、まだ起きない方が……」慌てて立ち上がりこっちに寄ってくるクリフトに「大丈夫。ちょっと頭痛するだけだから」と言ってこっちから川の近くにいるクリフトまで寄っていく。もう杖の代わりになるものが無くても歩ける。と思った瞬間に一回よろけたけどそれもそのときだけで、川のほとりに腰を無事に下ろすとクリフトも安堵の表情で隣に座った。ハンカチをたたんで返すとクリフトは一度川で洗ってから絞って懐にまたしまう。
 胡坐(あぐら)を掻(か)くか足を伸ばすかを一秒悩んで靴と靴下を脱いだ。ボトムスの裾をちょいと折り曲げる。
「ちょっ、何してるんですかっ」「水が気持ちよさそうだから」間接的にというか遠回しに軽く答える。「でもまだ熱が……!」「大丈夫だって」歯を見せて同じく軽い口調でクリフトが言おうとしたことを遮った。
 そっと足を浸(つ)けようか勢いを浸けようか悩んで、結局指先だけ浸けてみる。「うわっ、冷たっ」
「い、言わんこっちゃないですよっ」反射で足を引っ込める僕にクリフトが慌てた声を上げたけれど、構わずに足をもう一回川の中に入れる。
 両方の足をゆっくりと入れていく。冷たかったけど苦にはならなかった。
 膝辺りまで浸(つ)かったところでほら大丈夫だろとクリフトに笑いかけると、微妙に疑うような顔でこっちを見てきたけどもう本当に大丈夫だったわけでやましい事も無いわけで普通にしていた。
 足が浸(ひた)った川の水は静かに揺らめいている。
 冷たくて、気持ち良い。予想していた以上に心地良かった。
 膝近くまで浸(つ)かった足に氷を纏った綿が絡まりついたよう。   
 ――あの日の臭いを洗い落とせてる気がした。
「……で?」
 突如さっきの話が途中だったことを思い出す。そういえばまだクリフトが何でこんなことを言い出してきたのか知らない。えっと……記憶があった方が無い方が良いか、だっけ。
「で……とは?……ああ」すぐに思い当たったらしく、クリフトはちょっと気まずそうな顔をした。「記憶の話でしたね」
 ちろちろ。耳に流れる音は水音だけ。
 クリフトが黙りっきりになったから足を川の中で泳がして暇をつぶす。
 言葉に出す、っていうことはとても勇気がいることだから……。
 シンシアに……僕はまだ言えてないわけだし……。
 だから僕は待った。水で遊びながらだったけど。
「まだ、仲間の誰にも話したことは無いんですが……」クリフトが低い声で話し始めた。さっきから耳を傾けてるから準備ばっちり。いつでも話してくれ、と思ってた僕でも次の一言でさすがに耳を疑った。「この方、一度記憶喪失になったことがあるんです」
「記憶……喪失……?」「ええ。記憶喪失です」
 信じがたい単語を復唱すると、クリフトが念を押すようにもう一度呟いた。
「ガスで頭痛がして毒受けてそこで頭打っての運悪く、ですけどね」わたしらしいでしょ、とクリフトがおどけて見せたけど記憶喪失ってそんな十二分に大層なもの……。開いた口が塞がらない。
「後悔する時に、やっぱり記憶なんて無くても良いかもって思うかもしれないですが……」クリフトはそこらに転がっている石ころの一個を川に投げ捨てる。「むしろわたしは記憶が無い方がつらいって思います」
 ぽちゃんと川に石が落ちるのを見ながらクリフトの言ったことについて考える。
 記憶が無い方がつらい……か。それは一理あるかもしれない。
 シンシアの帽子を見ても何も感じなくて何だこの薄汚れた帽子は……と思うと自分にぞっとする。村があった場所に何があったのか……忘れてしまったら旅をする意味も最終目的のデスピサロを倒す意味も無くなってしまう気がする。
 確かに記憶があって縛られることは苦しい。だけど……。
「ほら、あれですよね。例えば片足でバランス取るのは結構難しいって言われてもやってない人にはその難しさが解からないっていう」
 川を見つめながら何も喋らない僕に慌ててクリフトが釈明する。
 まあ確かに実際になってみないことには中々判からないことではある。記憶喪失ってどんな感じだと思いますか?と言われても閉口してしまう。
「……記憶喪失になった時に自分のことも姫様のこともブライ様のことも判からなくて、凄い悩みました。自分は本当に何者なのか……って。色んな可能性を考えて、実は魔物の仲間で姫様やブライ様を騙してるかもしれない、とか……。本当に、色々……」
 もし今、僕が記憶を失ったら、目の前のクリフトのことはもちろん、出会った仲間達のことも忘れてしまうだろう。あの村の人も、村で起こったことも、また。
 それは幸せなのだろうか、不幸なのだろうか――。
「レイさん」まだ黙りこくっている僕にクリフトはそっと呼びかけてきた。僕は顔を上げてクリフトを見つめた。「人は記憶に縛られるものですが、同時に支えにもなります。その……、村に起こってしまった不幸も……いつかは記憶として、過去として宿る……とわたしは思います……」そこで言葉に詰まったクリフトは微笑して「すいません、巧(うま)く、言えなくて」
「いや、良いよ」微笑を返しながら伸びをする。足はまだ川に漬(つ)ったまま、いい加減足が麻痺って冷たさに疎くなってきた。「ここから今キャンプしてるところまで一人で行けるから、クリフト先に帰ってろよ」
 丁度話の区切れだったし、もう少し一人で考え事をしたかったし。
「え、でもレイさんさっきまで熱が」「僕はもう少しここにいたいから」
 クリフトの抗弁を遮った。今は一人でいたい気分だった。
「そうですか……」とクリフトが何か悟ってくれたのか立ち上がって、「あっちに真っ直ぐ歩けばキャンプに着きますから。くれぐれも、無茶はしないで下さいね?」
「解かってるって」クリフトの心配性に苦笑しながら応じる。「おやすみ」「……おやすみなさい。熱ぶり返さないで下さいね」クリフトはまだ納得しきらない顔をしてたし何度も振り返ってきたけど、行ってしまったのを確認すると何となく息を吐いた。
クリフトは多分慰めてくれていたのだと思う。先程、ライアンが自分のパートナーの身の上話をしてくれたように、クリフトも。まあ僕の今日の思い出したくないような出来事に同行して、そのままクリフトやライアンが思い出したくないものと連想させてしまって思い出したのかも。
 記憶に縛られている……。確かにそうだよなぁ。やっぱり村を襲撃された後、すぐは生きてることがきつかった。毎晩寝れなかったし、寝たらとんでもない夢を見そうだったし。
 どうして僕だけ生き残ったのかって……それだけ考えて考えてきつくなって寝れなくなって……。
 勢いをつけて足を川から出す。飛沫(しぶき)は川の向こうj側まですぐに目に見えなくなった。父さんが釣りのために見つけたこの場所にたどり着くなんて、なんて偶然なんだろう……。
 重力に従って落ちていく足が水面(みなも)を叩く。さっきとはまた一味違った飛沫が上がる。左頬と右腕に冷たい感触につい固目を閉じた。
 ……逆に考えれば僕は生きなければいけなかったと心のどこかで思っていたからだと言える。
 決心を胸に刻み、憎しみの炎を焚(た)いたあの出来事があったから、僕はのし上がって立ち上がれた……。
 でも……。
(そう簡単には……忘れられないな……)
 天秤(てんびん)が揺れ動く。圧倒的に負の感情のほうが多く、重く見えるのに。歩くと決めた正の感情のほうが勝ってる。時々凄く不安定になるけど、また歩き出す。
 足をまた水の中でぱたぱたさせながら空を見上げる。少しさっきの位置と違う、かな?いや、特に変化は無い、かな?意識が飛んでいた時間も大した長さじゃなかったらしいし、空はやっぱり変わらずにそこにある星もある。
 ――過去に戻りたいと思うのもまた“迷い”、今もいつかは過去になる。
 後ろを振り向いて、めっきり草木一色に塗られたのを見てふと思う。
 道は歩くから出来る、歩かないとこの森みたいに草木が生えて道を隠す。父さんが毎日歩いていたはずの砂利道が、今はあの日から歩く人がいなくて徐々に消えていくように。
 迷えば迷う程時間が減って、更に迷い込んでしまう。
 僕には同じように迷う時間が無かった。決められた二つの選択肢、生きるか死ぬかを、きっと……迷ってる時間なんて無かったんだと思う。
 それに、という可能性もある。それに……いくら迷っても答えは一つだって感じてた。
 ……生きる。
 それはとっても楽な道じゃなくて、強いて言うなら山あり谷ありという形容する言葉を楽々と易々と乗り越えるぐらい。山っていうか天空くらいで、谷っていうか海底くらいの苦難というものがね……。
 ……言ってて何か軽く感じてきた。いや、ちっとも軽くないけど何かこういう風にずっとずっと考えてたらなんていうかな、考えるのに疲れちゃってもうどうでも……良くないけどちょっと楽になったような気がしなくもないけどそれって無責任なんじゃ……。
 あー意味解からねえ……。
 髪に手を突っ込んでぐしゃっとする。
 でも……。一つだけ、どうしても確かなことがある。何があっても揺るぐことの無い真実がある。
 片目にエメラルドグリーンの髪が掛かる、それでも。それでもその隙間から見える空は。
 ――この空は繋がっている。繋がってない空はないから。
 たとえ君が人間じゃなくても構わない。エルフでも精霊でも……この愛しい気持ちは、そんな壁を乗り越えられる……。
 この空に、誓う。誰もが見て、護られているこの空に、僕は誓う。
 君に逢いたいけど、まだ、やることがあるから。
 今の自分に出来ること。
 あの日の自分に出来ないこと。
 ……必ず……生きて、いつか、皆が笑って幸せになれるまで――
 冷え切った足を川からそっと出して若干悩んでから濡れた足を手で軽く拭いて(拭けてるのかさて置き)、靴下と靴を順に履いて立ち上がる。
 今は、仲間の元へ向かう足。
 いつか……その足は……君に、向かうだろうけど……。
 今は、想うだけ……。
 無責任、かな。でも、君ならこう言ってくれるよね。
 『全く。レイらしいわね』って、鈴を転がすような声を無邪気に花畑で響かせてくれる。
 僕は、世界で一番君を知ってるから……。
 

DQの部屋お久しぶりです !これはNo.7「I Love...」というチイかの執筆作品の、その日の夜の話です。先にNo.7を読むべしですと言いたいところですがここを読んでる方はもう手遅れ、でしょうね……。

ヒャダインさんの「明日への旅」という投稿動画を見て無性にDQ4が書きたくなったのでした。だから個人的に、脳内でかなり印象的だった男主人公レイの半日後的なのをこの度はMOTHER2執筆の合間に書かせていただきました。

あらかじめ(?)申しておきますが、クリフトの記憶喪失うんたらかんたらという話は、No.5「あなたは だれですか?」というチイか完全オリジナルの作品の話と繋がってたりします。気が向いたらそちらもどうぞです。

さて、テーマはといいますと、ずばり「久々にちょい暗め!」って感じでした。やっぱシリアス好きです。

結構場面ころころ変わってますが基本森の中です。レイは始終空を見ていますが、多分あんまり見えません。すいません雰囲気ぶち壊した。

今回やけに“……”の使用率多かったです……。レイの考え事が多かったせいでしょう。ってか皆考え事多い……。

Q「大丈夫」は何回本文に出てきたでしょうか A知りません