炎と悪魔と、それから剣
 お父さんが王様に呼ばれたって。
 それを訊いたのはもうすでに出発の日が明日に迫ってる夕食だった
「お父さん、行くの?」
 リュカはこのがっちりとした体格をした父が誇りだった。皆が異口同音に『お父さんみたいに立派になるんだぞ』というから、リュカの理想はいつだって父・パパスだった。
 虎のように気高く熊のように温厚で包み込んでくれるお父さんがリュカは好きだ。
「うむ。王直々の頼みだからな」
 食事中にリュカが話を切り出すとそんな言葉が返ってきた。サンチョがやっぱりという顔をした。ちょっとげんなりしたような残念そうな顔だが昂揚感があったようにリュカは見えた。自分が仕えてる人がこんなに信頼されてる人間でよかったというように。
 床に座って生肉を食べてるプックルを見た。美味しそうに摂食している。
 パパスはちょっとの間を置いて、
「リュカも来るか?」
 と訊いてきた。リュカはもちろん二つ返事をした。
 それに父が切り出すまでもなく、断られてでさえ行こうと思っていた。プックルを連れて。
 ラインハットという名の響きにただただ浮かれた。
 
「うわあ・・・。立派だね。今まで幾つもお城を見てきたけど、ここまでなんかこう、押さえつけられそうなの初めて」
「ふにゃぁー」
「ああ。変わってないな」
 ラインハットのお城は立派な堀に囲まれていた。すれ違う町の人々は裕福そうな顔をしている。
 パパスは構わず大きく堀に囲まれた建物へと歩を進めた。辺りを見回していたリュカは慌ててパパスを追いかける。
 店が幾つも並んでいてリュカは興味を何度も注がれた。しかしその度にパパスについていかなくちゃという思いが湧く。
 それは迷いたくないという気持ちだけじゃなかった。きっと。
「わたしがパパスというものだが・・・」
 城に入ると城の兵士二人がもっともらしく威厳いっぱいに槍を交差させてパパスとリュカの進路を遮った。
 だがそれもパパスの名を出せばなんてことはない。
 慌てて交えた槍を元に戻して、なんだかさっきよりも通路が広くなったような。
「あ、あなたがパパスさんでしたか!これはご無礼を」
「ああ、いやいや」
 パパスは一人の兵士と会釈をすると、道案内をしようともう一人の兵士が前にでた。
「いえ。もう勝手知ったる人の家という感じですからな。迷う心配はございますまい。御身方は城の護衛に勤めてくだされ」
「はっ。ま、誠に申し訳ない」
 城の兵士が慌てて敬礼をした。パパスも一礼して、
「さ、リュカ。行くぞ」
 リュカに声を掛ける。
「うん」
 お父さんの背中が見えなくなる前と途端不安になってしまう。なんだろう?
 
 王様は恰幅が良く、しかし少し疲れ果ててるように見えた。
「おうおう、良く来たパパスよ。ん?そちらの子供は・・・そうか。息子か?」
「ええ。リュカだ。ほら、リュカ」
「あたっ」
 パパスに背中を押されて思わず前のめりにこけそうになる。
 もう・・・膨れっ面で父を見上げた。ほら、とパパスは目の前を指す。もちろんそれは王の方向である。
 何だか腑に落ちない気分だがリュカは王様を見上げてそれから黙礼する。
「リュカです。こっちはプックルです」
「ふにゃ?」
 いきなり体を触られてビックリしたのか一瞬プックルは体を強張らせたが、それがリュカだとわかり撫でてくれるのかと期待の行為を体一杯で表現して見せた。
 いきなりのプックルののしかかりにリュカは耐え切れない。
「うわわっ」
 王様の前でいきなりプックルに押し倒され、馬乗りされながら思わずリュカは赤面してしまう。絨毯がちょっとふわふわで落ち着かなかったっていうのもあったのかもしれないけど、多分違う。
「もうっ、プックルったらっ。やめろよっ。くすぐったいよっ」
 ようやくプックルと切り離された(パパスが苦笑しながらプックルを抱き上げて本当にようやく)リュカは恥ずかしくなってしまって、自分でもわからないままパパスの陰に隠れた。
 その様子を見ていた王は大口を開けて笑い出した。
「はっはっは。パパスよ、可愛い息子じゃないか」
「ええ、まあ。でもそういう王様だって、わたしの息子と同い年の息子が」
「ああ」途端苦虫をかみ殺したような顔で「ヘンリーか」
「そう。ヘンリー王子。確かそんな名前だった」
「あいつは将来王位を継がせたいと思ってるが性格が難ありでな。・・・」
 会話が段々大人の、子供にはわからない世界へと入っていく。
 リュカは眉を顰めて、いつまでも途切れそうにないような話が一瞬でも途切れる時を待ち構えた。やっとちょっとは区切りがついたというときにパパスの服を引っ張った。
「僕、ちょっと城歩いてていい?」
 パパスは無言で王のほうへと目を遣(や)る。王はニコニコとした顔で頷いた。
 それを見た刹那、リュカはプックルを連れてさっさと階段をかけ下りた。
 
 はぁ。災難かも。
 特にすることもなく、リュカは傍らにいるプックルを横目で見ながらとぼとぼとお城を歩いていた。
 すれ違う兵士兵士が「あれがパパスさんの息子だと」「パパスさん?」「ほら、王に子守として呼ばれた」「あー。てか子守じゃないと思うなぁ、本意は。もっとありそうだろ、王のことだし」と口々に言ってはすぐに次の話題へと移った。
 それはヘンリー王子とデール王子の跡継ぎ争いの話、物情騒然としたラインハット内情の話だった。
 リュカにはあまり話がよくわからなかった。
 だから城を歩いているうちにデールには会ってもどうもと軽く挨拶した程度だった。詳しく言えばデールとその母親。
 この母親が高笑いするものすごく癖のある・・・。気付けばリュカは冷や汗をかきながら部屋を飛び出していた。
 彼女の笑い声が奇々怪々で不気味にリュカの頭の中に残ったのは、
 胸騒ぎが止みそうにないのと同じかもしれない。
 漠然と心のどこかで思った。
 
 廊下を歩いていると壁に背を掛けた見慣れた巨躯が見えた。紛れもない、父である。
「あれ?お父さん」
「おう、リュカか。どうだ?この城は広いだろう」
「うん」
 ついさっき逃げるように王室から出てきてしまって正直父を見合わせる顔がない。顔を俯かせたままリュカは特に続く言葉がなく立ち尽くした。
 そんなリュカをパパスは一瞬怪訝に思ったが、すぐに思い当たりそ知らぬ顔をすることにした。あまり触れないことがいいと思った。
「ちょっとリュカにお願いがあるんだ。訊いてくれないか?」
「う、うん。い、いいけど」あれ?王様の前であんなことして、叱られると思ったのに。
「ヘンリー王子の子守を頼まれたんだが・・・いや、恥ずかしい話だがヘンリー王子に部屋に入るなり嫌われてな。同年、ということだからもしかするとリュカとなら気が合うかもしれん。どうだ?」
「うん」リュカは頷いた。「もちろんいいよ」
「そうか。頼まれてくれるか。ヘンリー王子の部屋はそこだ」
「わかった。いこ、プックル」
「ふにゃー」
 それから十数歩で扉の前に着く。
 リュカはその扉をノックした。
「なんだ?用があるなら入れ」
 ず、ずいぶん生意気そうだなぁ。
 リュカは顔が引きつるのが何となくわかりながらも入室を試みる。
「こんにちはっ!」
 なるべく第一印象を大切に、リュカは元気に挨拶をしてひょっこり顔を覗かせる。
「ん?誰だお前は」
 翡翠の髪の毛をおかっぱにざっくり切り落とした、服は立派で王族のもの。リュカの身長と同じぐらいの、それは威風堂々としたような子だった。
「初めまして!えっと、僕はパパスの息子のリュカ。よろしく、ヘンリー!」
「なんだその口の利き方は!」
「わっ」
 ヘンリーがリュカの頭を叩こうと腕を振る。リュカは頭を押さえてしゃがんで避けた。頭上で風が起こり、ターバンの下にある黒髪が数本連れて行かれそうになる。
「いきなりなんだよっ」
「俺はこの国の第一王子だぞ!王様の次に偉いんだぞっ!」
「ぐるるる・・・」とプックルが低く唸る。急に大声を出したヘンリーに向かって。
「わわっ・・・プックル、大人しくして」
 慌ててリュカが今にも飛び掛りそうなプックルを制す。どうも納得いかないようだがプックルは唸り声を止めた。
「ん?なんだその猫は。そうか、お前の子分だろ」
 一方的なヘンリーの物言いに、リュカは頭にきて反抗する。
「ち、違うよ。プックルは友達。そうだ。ヘンリー、友達になろうよ!」
「馬鹿野郎!俺はここの第一王子だ。友達なんて生半可なもの、誰が出来るか。そんなもの願い下げだ願い下げだ!」
 ヘンリーの罵声が部屋一面に響く。しばらく息が詰まるような沈黙が下りてきた。
 ヘンリーが唇を噛み締めたまま、時々舌打ちをする音だけが時々。
「・・・なんで?」「なんでって」そんな当然のことも知らないのかこいつはという具合にヘンリーは絶句した。そして舌打ちをして「当たり前だろ。信用できないからだ!パパスだって俺の親父の子分になりに来たんだろ」
「違うってば!お父さんとヘンリーのお父さんは友達なんだよ!」
 パパスが道中に語ってくれた、ラインハットの王様とパパスは旧友なんだという話を一瞬にしてリュカは思い出す。
 この一言でヘンリーが怯んだ。予想してなかった。あのどうせでかいだけ、見かけ倒しの大きな体を持った男が親父との知り合い、しかも生半可な友達だと?
「は、はぁ?何言ってるんだよ。あんなのが親父の友達なわけないだろ!
「ほんとだよ」リュカは冷静な声で、でも棘があるように言った。更にヘンリーがそれで口を閉ざす。「ヘンリー。少しは人を信じようよ」
たしなめるようにリュカが言う。ヘンリーは気難しいような顔をしたまま俯いている。
「・・・ヘンリー」
「・・・れ」
「え?」
「・・・まれ・・・まれ黙れ!
 次第に強く、ヘンリーが唾を飛ばしながらリュカの頬を叩(はた)く。
 むしろ気持ちいいぐらいの音が、部屋一帯に余韻を残す。ヘンリーは叩(はた)いてしまってから自分でも驚いたように自分の叩(はた)いたほうの手を見た。リュカは叩(はた)かれた頬を押さえて、それでもヘンリーをじっと見つめる。傍らのプックルがまた唸りだしたが、リュカの静止の手がずっと目の前にあった。
「・・・お、俺の子分になる気がないなら、とっとと出てけ!」
 ヘンリーが気まずそうに声を荒らげる。リュカは有無を言わさずプックルと一緒に部屋から押し出そうとする。
 リュカは焦った。今ここでこのまま押しやられ扉を閉められては、心の扉までも閉ざされてしまう。こ、これじゃあお父さんが困っちゃう。自分の頬の痛みよりも、そっちの方が痛んだ。
「ヘンリー、ヘンリー!わ、わかった。君の子分になるっ。なるからっ。押さないでよ」
「ふん。最初からそう言え
 ヘンリーは舌打ちをして、リュカを押し出そうとした手を引っ込めた。
「じゃ、まずその呼び捨てはやめろ。俺はお前とは身分が違うんだ」
「それじゃあヘンリー・・・様?」
 戸惑いつつもリュカは知ってる限り敬った形でヘンリーの名を出す。
「よ、よし。次に子分の印だ。向こうの奥の部屋」
ヘンリーが奥にあるやけに装飾の着いた扉を指して、
「あそこにあるから、探して取ってこい。そしたら正式な子分として認めてやる」
「わかった」
「じゃなくて?」・・・。
「・・・わかりました」ヘンリーは満足そうに頷いた。
 どう考えても納得がいかない感じに軽く受け流された感じがしたリュカだったが、ここであーだこーだ言っても仕方がない。ここはヘンリーの言うとおりにしたほうがいいかもしれないかなとリュカはプックルを誘い装飾だらけの扉を開ける。
 そこは小さな部屋だった。ヘンリーの部屋と比べて半分程。それでも確かにパパスの部屋と比べればちょっと大きいぐらいな気がするが、そんな感じの部屋に小ぢんまりとしたタンスと中央にはリュカの両手には少し大きいぐらいの木の箱があった。
 ははぁん。あの中かな。いかにもな感じ。
 さすがにこればっかりは(簡単すぎて)冗談にもと思ったが、あのヘンリーならやりかねないかもとリュカの思考が動いたわけであり、さっさと箱に歩み寄り開けた。
「・・・あれ」何にもないじゃないか。
 箱の中は空で別にひっくり返しても何もでない。二重底なわけでもない。特に仕掛けもない、ちっぽけなただの小物入れと言う具合だった。
 しかし辺りを見回してもそれらしきものは・・・。
 もしかして、あの部屋の端に申し訳なさそうにあるタンス、なのかな。
 傍らにいるプックルはリュカを見上げて必死に主人についていく。
 人様のタンスをあさるのは少し躊躇う事だけど・・・ま、仕方ないや。
 引き出しが3つある、派手な扉に比べたら別にこっちも何もないただのタンス。
 そういえばさっきの箱も質素な物だったし、ヘンリーは華美なものは苦手なのだろうか?部屋の扉の飾りは備え付けでとれないようだったからヘンリーがどうのとかいう話ではないのだろう。その点、家具はいじれるからそこに性格が出るのかもしれない。
「うーん」
 どの引き出しも、失礼かもしれないが大したものは入っていない。瓶の栓だとか、どっかから剥いできただろう木の皮だとか、さすがに今のリュカやヘンリーには小さい白いマグカップだとか、誰が書いたかわからない手紙だとか。
 ここは、ヘンリーの宝物入れ・・・なのかな。
 リュカは何となく嫌悪感を感じた。やっぱ見たらいけなかったなぁ。リュカは綺麗に中を整理して引き出しを閉めた。
 子分の証ってどこにあるんだろう。ここにはただの小物入れとただのタンスしかない。
「もう一回ヘンリーに訊いてみよう。行こう、プックル」
 リュカは諦めてヘンリーの部屋へと足を向けて歩き出した。
「・・・あれ?ヘンリー?じゃなかった。ヘンリー様?」
 彼の姿かどこにも見当たらないのだ。
 あれれ。辺りを見回した。変わっているところといえば、ついさっきまで座っていた小さな椅子が所在無さ気に倒れているだけ。
 だからかリュカはすぐに気がついた。椅子が転がってる側の床に穴があり、そこが縄梯子になっているということが。
 プックルはそこを嗅いでリュカに合図をした。主の探してる人はここの下に行ったよ。
「・・・何か物でも落としたのかな?」
 あくまでも前向きに考えるリュカは穴を覗き込んだ。人一人なら楽勝で入れそうだし、ヘンリーはもしかしたらここから一階に下りていったのかもしれない。だったらここから声を掛ければ聞こえるかな?
「ヘンリー、様!子分の印ってどこにあるんですかー!」
 穴に顔を入れて大声でヘンリーを呼んでみた。でも少しのエコーが掛かって自分の声が帰ってきただけ。
「下りてみようか、プックル」
 言ってからリュカはプックルがとても器用でない限り、梯子なんて上り下りするのは無理だと気づいた。さすがに縄梯子を爪で切ってしまうことは・・・ないだろうけど。
 しょうがないから、これも器用じゃないと無理だけどプックルには頭の上に乗ってもらうことにした。別にプックルの俊敏な動き程度なら飛び降りても大丈夫な気がしたけど保証はない。
 リュカはずっと一階に視点を下ろしてたためか頭が一瞬よろめいた。城の天井というのは高いもので、つまりその一階の天井と同時に二階の床があるわけで、リュカはそこから覗き込んでるわけだから、六歳じゃなくても相当だった。
 縄梯子がしっかりとついていることを確認し、プックルを頭の上に乗せリュカは梯子へと踏み込む。縄梯子の格(こ)が揺れてリュカが刹那、微少振り回される。リュカは一瞬目眩を覚えた。手を離しそうになってしまい、急いて手に縄の跡がつくぐらいひしと掴む。
 こりゃ足を踏み外したら最後か、なぁ。足折れるかな。
 大きく溜め息をついてから、次に深呼吸をして気持ちを整えた。
 一段、また一段と足をつけて着実に床に近づいていく。プックルも思ったよりもじっとしていててくれる。・・・怖いだけかもしれないけど。
 やっと揺れない地についた時には、さっさと頭の上からプックルを下ろして思わず脱力してしまった。膝が少し笑ってる。
「けっ。もう見つけやがったのか」
 生意気そうな声がリュカの頭上から掛けられる。
「ヘンリー?」
「ふん」ヘンリーが鼻を鳴らす。
「・・・様」
「ああ。いかにも。で、なんだろう。リュカ君」
 上から目線の台詞にリュカはかちんと来る。でも、ここで相手の機嫌を損ねてしまったら、せっかくここまで来たのに全部台無しになっちゃう。
 顔を上げると案の定、ヘンリーが腕を組んでリュカを見下ろしている。
「あの、子分の印というものがどこにも見当たらなかったのですけど!」感情を抑えてもちょっと語尾が強くなったが。
 しかしヘンリーは顔色一つ変えず踵を返しただけ。翻ったマントがリュカの鼻に少し当たる。リュカは一瞬痙攣して肩をすくめた。
 ヘンリーの肩が小刻みに揺れた。徐々に大きくなっていくと同時に、ヘンリーから漏れた笑い声が聞こえる。
「はっはっははっは。ばーか。元からねーよ、んなもん」
「なっ」リュカは絶句する。「騙したの!?ヘンリー!」
「おい」“様”をつけ忘れてるぞとでも言いたげにヘンリーがぞんざいな態度でリュカを振り返って見た。
 リュカは言い返そうとしたがそれも馬鹿らしくて、
「・・・もういいよ。やめよう」
「ど、どうなるかわかってんのかよっ」
 ヘンリーが泡を食ったような顔になってリュカに突っかかった。ヘンリーが今にも殴りそうな勢いでリュカの胸座(むなぐら)を取る。
 それでもいたってリュカは冷静だった。むしろ素気無(すげな)くて非情な顔つきをしていた。
「君みたいな」
 小さな声が最初はプックルの唸り声でかき消される。少し震えてる声が、少しずつ大きくなり妙な自信が混じる。
「君みたいな・・・威張ってる人が一番偉くないんだよ」
 刹那、ヘンリーの右ストレートがリュカの左頬をマークした。リュカの体が数メートル吹っ飛ぶ。プックルがヘンリーに飛び掛ろうとするのをリュカが大声で止めた。
「プックル!いいよ!」
「俺もお前みたいな生意気なヤツとは子分も何でも解消だ。二度と面を見せるな!出てけ出てけ帰れ帰れ帰れ!」
「・・・ヘンリー」
 騒ぎ散らしてヘンリーは踵を返して去っていく。ちらりと見えた横顔が怒っているような悲しいような、何気に図星だったのかもしれない。
 ヘンリーが角を曲がるまでリュカはヘンリーから目を離さなかった。リュカは煩雑な表情を崩さなかった。
「・・・はぁ」
 角を曲がって、数秒。リュカは思い切り溜まった息を吐き出す。
 廊下に静けさが戻った。この廊下は少し主要の通路から外れているのかもしれない。城のはずれかもしれない。
「ふにゃあ」
 プックルが赤く染まっているリュカの左頬を舐めた。
「ごめんね、プックル。君に人を襲わせたくないんだ」
 夕焼けの茜色の空のような鬣(たてがみ)をリュカはそっとなでた。相変わらずのふさふさでリュカの心はやんわりと落ち着いていく。
 しかしそれも一瞬のうちだった。
「う、うわああああああ!な、なんだおまえらは!」
 ヘンリーの仰天する声が延々と両端ともかなり長いだろう廊下に響いたことで静かな廊下が様変わりする。
 でもリュカには既にどうでもよくなっていた。
『俺もお前みたいな生意気なヤツとは子分も何でも解消だ』
 ヘンリーの言葉が蘇る。こっちだって、もうヘンリーとは何もない。こっちこそごめんだよ。もう、こっちからだって関わらない。
 だから自分に嘘をつくしかない。どうせここの王子なんだからさっさと城の兵士でも助けに来てくれるよ。あんな大声出してるんだから。
「く、くそっ!離せ!」
「・・・どうせ芝居だよ」
 二人の少年の声が被る。大声と小声が、月とすっぽんのように。雲泥のように。二人の、声が。二人の気持ちが雲泥のように離れた、その一瞬。
「ちっ。こいつ、声でかすぎだろ」
「口縛りゃあいいんっすよっ。早くしないと城の兵士が来ちまいます!」
 え?なんだって?
 ま・・・まさか!
 リュカの脳内に不吉な言葉がフラッシュバックする。
『最近、太閤様がいかにも悪そうな奴らとつるんでるらしいって』
『ああ、俺見ちまったよ』
『その悪い奴らをか?』
『ああ・・・それもそうだけど。取引してるところだよ。どうやらヘンリー第一王子を狙ってるかもしれねえらしいよ』
『・・・ほんとか?まあ、太閤様も自分の息子のデール第二王子を王にすることだけ考えてるらしいしな・・・』
 すれ違った城の兵士のうちのある2人がそう喋りながらリュカの横を通り過ぎていったのをリュカは思い出した。
 ・・・もしかして!!本当なのか!?
 周章したリュカは判断が鈍った。立ち上がろうとして一度転ぶ。プックルにも助けてもらって立ち上がった頃に角を曲がれば、廊下には誰もいない。開け放った裏口のような扉が真新しい具合にゆっくり閉まろうとしている。勢い良く開けすぎて反動で戻ってきたかのように。
「急げ!この坊主、廊下で騒ぎすぎたから誰か聞いてるかもしれねえ。さっさと東の祠に行っちまわねえと」
「ちぇっ。おいら、派手にやられましたよ。ほっぺたまだいてえっす」
 息を切らしてリュカは戸をくぐると、見えたのは眩しい日光と堀に浮かんだ船に乗った2人のがめつい男。
 堀には、小さな子供のだろう小さな靴が片方落ちていた。
 
「寒・・・」
 息を吐くと白い煙のようなものが出る。リュカは冷え切った手に息を吐く。
 ヘンリーをさらった2人が話していた“東の祠”を頼りに着いた場所は、大きくて暗くて寒い魔物にあふれた悪の神殿とでも形容するのが正しいぐらいだった。どこが光源かわからないが、微少の明かりが神殿をより一層不気味にさせてるように見えた。
 遺跡・・・それも、太古の。文明が既に滅んだその遺跡。
「お父さん!お父さんっ!!た、大変だよ!」
 リュカはあの後、すぐに父パパスの元へ駆けた。
 リュカは今までのことを全部話すとパパスは顔色を変えて辺りを見渡した。
 それから小声でパパスは言った。
「ことが広がらないように、今は城の者には誰も教えないようにしよう。わしが・・・父さんが何とかするからな。リュカは心配しなくていい」
 パパスは腰に付いた長剣を手と目で確かめて、さっさと城を後にした。
 その後をリュカはプックルと追っていたのだ。途中で、姿は見えなくなっていたけれど。
「くぅー」
 プックルは傍らにいた甘い声を出してリュカの体に擦り寄る。
「・・・プックル」
 そうだよ。こんなに暗いし怖いところだけど、一人じゃないんだ。一人じゃなくて、プックルもいるんだ。
 早く・・・お父さんを追わなきゃ。
 だってお父さんは道しるべ。僕のことをいつも思ってくれてるお父さん。
 僕はお父さんのようになりたい。だったらこれくらい、進まなきゃ。
 足が自然と進んでいく。
 運命の、時へと。
 
 とりあえず酒臭い。
「ぶはぁ!仕事の後のビールは最高だな!」
「お疲れ様っす!」
「それにしてもぉ、一国の王子をかっさらって売っぱらうなんて、やっぱり俺ら悪っすなぁ」
 そこらじゅうに散らばった酒瓶についリュカも躓きそうになる。
 お酒も臭いけど、この人達・・・絶対いい仕事してない臭い。まだ子供のリュカは足取りがふらつくぐらいきつい。瓶と臭いのコンボが最強だ。
 ――え?一国の王子をかっさらう?
「ねえ、おじ・・・お兄さん!」
 汚い机に豪快に汚い足を乗せた中年だろう男の服の裾をリュカは引っ張った。無精髭が立派に生え、木製のジョッキを呷(あお)る。筋肉隆々のその男はすぐではなかったもののリュカに気づいた。
「ん?なんだぁこの餓鬼」さっきまでそこら辺歩いてましたけど。
「こいつ、迷い込んだんでやしょうか?生意気にねぇ」
「ちぇっ。面倒でえ。もうノルマクリアしたからいいだろ。一ヶ月は酒飲める」
 さっきから「す」を妙にたくさん着けてるまだ青年になったばかりだろう男がリュカの顔を覗き込んだ。
「こいつ、むかつくぐらい真っ黒な瞳ですなぁ。そこに連れてるの、猫かぁ?」
「ちげーよ、キラーパンサーの子供」
「え」
「別に子供の頃から飼ってたら“地獄の殺し屋”もくそもねーんじゃね?キラパンの親が殺し方とか教えんだろーに。人間が飼ったら人間が親さ。人間に甘えるのも当たり前になるさ」
「いやー・・・そうっすかねぇ」
「ところでがきんちょさんよ。お前(めえ)さん、ここがどこかわかって入ってきた?」
「・・・」
 薄々逃げる時に話してたここが、盗賊とか結構いい人が集まらないような基地のような気がしてきたけどそれなんて口に出して言える話じゃない。
 リュカが口ごもっていると、訊いてきた男が机の上に乗っていた足で同じく乗っていた瓶を蹴飛ばした。辺りに誰もいない壁にぶつかり、破片が飛び散った。
 リュカは身がすくんだ。プックルの唸り声が側で聞こえる気がしたけど、リュカは手で合図をして止める。
「ここは餓鬼が来る場所じゃねえ。とっとと出てけ」
「あ、あの」リュカのその声は小さくて震えていて、外野のどんちゃん騒ぎで消されてしまう。
 じっと見つめてくる男の一対の瞳がリュカに突き刺さる。なにもかも見透かされてるようで気分が悪くなった。
「ご、ごめ、ごめんなさい・・・」
 リュカはこの時、人を外の魔物より怖く感じた。
 
 そそくさと2つある出入り口のうち、入ってきたのとは違う出入り口から出て行った。
 迷路のように上下に入り組んでいるこの場所で、やっと会えた。
「あ、お父さん!」
「てえええええ!!」
 大きな細身の剣を振るい、ドラキーの片翼がひらり。バランスを崩したドラキーにもう一太刀、ドラキーを真っ二つ。
 リュカはこの父の太刀が好きだった。隙がない。剣を振る時は、腕だけに気を遣うのではない、足のステップや目線も大切にしないといけない。そういつも父が教えるのを、リュカは覚えている。それを父は完全無欠に熟(こな)すのだ。
 剣に鞘をしまった後、信じられないという顔でリュカを見た。
「おう、・・・リュカか?」
「うん!そうだよ!」
「ふにゃー」
 パパスが目をこする。パパスにはこんな良くわからない場所にプックルと2人で(1人と1匹)来た自分の息子の頭を撫でた。ターバンの下から覗く黒髪が獣の毛やスライムの液体で少し汚れているのをパパスがそっと撫でた。
「いつの間にか成長したな、リュカ」
「えへへ。プックルがいたからだよ!」
 リュカがこの親としてはこの酷寒の中耐えながらも魔物を倒しながら遠くまで歩いた、このまだ6歳の息子がパパスにはとても誇らしげに思えた。
親として心配だというよりも。自立していく息子に。
「リュカ。きっとこの先に、ヘンリー王子が囚われてる。さっき賊がいただろう。壁越しに聞いた」
「ヘンリーが・・・」
 ・・・早く助けなきゃ。
「お父さん!」
「ああ。無理についてこないでくれとは言わない。お前の好きなようにすればいい」
 上にあるお父さんの顔は、否定も肯定もしてない。
 どんな意見にもリュカに応じると言わんばかりに。
「もちろん!だって、ヘンリーは僕の友達だから!」
 
 黒っぽい水を湛えた水路が不審そうに水面を揺らめる。
 途中から打ち捨てられた舟で移動せざるを得なくなってしまった。
「お父さん」
 リュカが指を刺した先に鉄格子がうっすらと見える。所々に掛かっている松明が不気味に揺らめいている。
「牢屋、か」
 鮮明に見え始めた鉄格子は幾つも連なり、中には髑髏が転がっている部屋もあった。リュカは背筋が凍ってしまい思わず顔を背けた。
 ここ・・・嫌だな。帰りたい。
 自分が出す白い息が更に恐怖心を震わす。
 ・・・ヘンリーはこの中の1つに一人ぼっちでいるんだろうか。
 早く。早く助けないと。ヘンリー、どうか・・・!
 気持ちが強くなった。
 ――その時。
「王子!ヘンリー王子ですな!?」
 パパスの声にリュカははっとする。
 そう。予想通り牢に閉じ込められていたのだ。ヘンリーはその牢の中で転がっていたのだ。
 ヘンリーはパパスの声で起き上がらない動かない。リュカは不安になった。ここからじゃ顔が見えない。
「お、お父さん。舟下りていい?」
「構わん。早く見てくれ・・・!」
 パパスの声も心なしか焦ってるような気がする。
 プックルもリュカの後についていく。
「ヘンリー!ヘンリー!助けに来たよ!起きて!」
 しかしまたも返事もないし動かなかった。
「ヘンリー!?起きて、返事して!」
 鉄格子の扉を大きくガチャガチャ鳴らす。もう魔物なんてお構いなしだ。お父さんがいるから、怖々してる必要ないんだ。
 鳴らすのを止めてもヘンリーはちっとも動かない。
 リュカは堪らなくなって錆びの茶褐色で既に手が無残になっているにも関わらず、更に錆びの酷い取っ手を持った。しかしこちらにはまだ真新しい鍵がついているではないか。もちろん、リュカに盗賊の心得なんてものはない。
 錆び付いていて古くなったいくつもの鉄棒でリュカもプックルも通ることが出来ない。蝶番(ちょうつがい)も上手くすれば風化の関係で取れそうだが、どうも鉄釘が飛び出している。下手にいじると怪我をする。
 万事休す、かもしれない。まだヘンリーの生存が確認できてないのに。
 いきなり肩に何かが触れた。寝耳に水のリュカは俊敏にとびずさり、腰に下げている剣を半分引き抜いたところで、触れたのがパパスの手だったことに気づく。
「おっと。すまんな、リュカ」
 と言いつつ、パパスはそんな悪びれた風もなく扉を念入りに調べ始めた。
「ふむ・・・鍵は新しいが他はずいぶん昔の物だな」
 だったらと最後に呟くと、パパスは水路ギリギリまで扉から遠ざかる。
「?」
 お父さん、何をするんだろう。リュカの頭の中は疑問符いっぱいになった。プックルは何となくやることを感じ取れたようで応援の声を掛ける。
「ぬぉぉぉおおおおおお!!!」
 パパスの気合の一声と同時に、体全体でぶつかるように扉を押したではないか。パパスの体躯と力を考えて、錆びてる扉がこれで外れないわけがない。
 がちゃんと大きな音を立てた後、扉が倒れる――ヘンリーは牢の奥にいたため、その扉本体が当たる事はなかった。正式に言えば、釘がヘンリーの右腕と左膝をかすった程度か。いや、中途半端に開いてる口にも釘が攻撃を仕掛けてたが。
「・・・わーお」
 リュカは所在無げに言葉をこぼした。
「ヘンリー王子っ!」パパスはさっとヘンリーの側に寄り、脈を確かめる。
 しかし、それも無用だった。
「ん・・・?なんだ・・・よ。さっき・・・から・・・」
 ヘンリーの体が自ら動いたのだ。それは、もちろん生きている証拠である。
 これにはパパスもリュカも、プックルも顔をあわせて安堵の溜め息をつくしかない。
 ヘンリーはこの一瞬の状況に理解できなかった。自分がなぜこんな場所にいるのか、なんでこいつらと一緒にいて壊れた鉄格子があるんだ・・・?
「一緒に出よう、ヘンリー」
 リュカがさっと呆けているヘンリーに手を差し出した。ヘンリーは思わずとりそうになった。見つめてくる彼の目が、とても真剣だったから。澄んだ黒い瞳に任せておけば安心できる気がしたから。
 でもリュカの手に触れた途端我に返った。
「痛っ」
 リュカの手を引っ叩く形になった。が、ヘンリーはそんなこと気にしてる場合じゃない。
 さっさと頭の中から記憶を引っ張り出す。
『悪く思うなよ。こちとら金が掛かってるんでな』
『それにしてもあそこの王妃、悪ですねぇ。自分の息子を王にしたいからって』
 そうだ。あの、継母が。あいつが・・・!
「どうしたの?どっか痛む?」
 白いミルクの霧のように、声が優しく掛かる――と感じたのは、この寒い空間の中語りかけてきたリュカの息がそうだったからかもしれない。
 でもヘンリーは甘えるのが嫌だった。あくまでも自分は人の上に立たなきゃいけない人なんだって、固定観念が自分の中で出来たのはいつだろう。
「お、俺は」自分の意見はいつだって通った。「俺は、二度と城には帰らねえ!」
 躊躇がなかったわけじゃない。でも冗談じゃない。本気も本気だった。
 帰りたくなんかない。あんな城。
「どうせ王位は弟のデールが次ぐんだ!俺なんていないほうがいい!さっさと、さっさと出てけ!俺はここで・・・」
 目の中にリュカが腰に刺している剣が目に入った。
 素早くそれを引き抜き、刃先を自分の喉仏に向けた。
「ここで死んでやる!皆出てけ!俺はここで人間をやめるんだ!俺なんて。俺なんて生きていないほうがいいんだ!」
「ヘンリー!何言ってるのさ!僕たちは、君を助けにやってきたんだ。君がいらないなんてもし僕たちが思っていたら君を、助けになんて来ないよ!」
「馬鹿野郎!・・・わかった。俺のこの言葉を王子としての最後の言葉にする。これっきりだ!王子なんて・・・王位なんて捨ててや」
 ぱしっ!ヘンリーが言葉を言い切る前に、二つの音が気まずく響いた。もう一つは剣が転がり落ちた音だった。
 パパスがヘンリーを引っ叩いたのだ。もちろん、全力で叩いたわけではない(旅をして大きな剣を振るっているパパスが、あまり外に出ない王族の6歳の子供の頬を全力で叩いたら、もうこれはどうにも救いがたい状況である)。痛さというよりもヘンリーは精神的にショックなのを隠せない表情で
「殴ったな!この、王子のこの俺を!」
「ヘンリー王子!貴方は何も分かってない」
「わかってるさ!俺なんていないほうがいいことなんて!」
「違う。わかってなさらぬ」
「俺が王子だからか?!お前、王子の俺を助けて英雄になろうとしてるんだろ。はっ!ばっかみてえ。皆そうさ。地位が欲しくて、正確に言えば金が欲しくて皆俺に付きまといやがって!」
「貴方はお父様のお気持ちを考えたことがあるか。王子が何かやらかした時の心配そうな瞳を、見たことがないのか」
「そんなこと、知るかよっ・・・」
「いつだって我が子を心配する親の気持ちは、庶民でも王族でも、たとえどんな環境でも変わらないものなのです」
「・・・んな。・・・そんなこと、あるわけねえよ・・・。親父は・・・どうせいつもデールのことで頭がいっぱいさ!でも俺はデールが俺の子分だから許してるだけなんだ!何一つわかっちゃいねえのは・・・デールなんだよっ。まだ小さいくせして、あいつは色んなところから愛情もらって・・・もらいやがって・・・」
 ぺち・・・!
 さっきパパスが叩(はた)いた所と多分同じだろう所を平手で打った。小さくて可愛らしい音かとさぞ思うだろうが、こっちのほうは6歳の少年が本気で同年の子を平手で叩いたわけである。実はさっきと同じぐらいか、いや、上の痛さだったし、二回目というのは効果覿面(てきめん)だったりするから侮れない。
「さっき叩かれたお返しだよ。まだヘンリーは生きてるんだよ。ヘンリーなんだよ?ヘンリーは・・・ヘンリーなんだから。自分のこと、もっと見つめなおして、大事にしなよ・・・」言いながら泣きそうになる。「ヘンリーすごいなって思うよ。こんな所に独りぼっちにされたら僕泣いちゃうもん。お父さんも、プックルもいない、こんなところに。でもヘンリーは泣かなかった。それって、すごいことなんだよ・・・?」
 ヘンリーの顔が複雑そうに歪む。
 リュカは胸に両手をあて、自分の心臓の鼓動を感じた。
 僕も、強くなりたい。
「喧嘩の続きはよそだ。もうかなり騒いでしまった。急がないと、追っ手が来きてしまうぞ」
 パパスが鋭く言った。ヘンリーが舌打ちをしたが、この中でも穏やかだけど真剣に瞳を向け手を差し伸べるリュカの手を、今度は離すことはなかった。
 そこで初めて靴が片方ないことに気付いた。
 ちっ。靴片方なんて気持ち悪い。ヘンリーはもう片方の靴を投げ捨てた。
「くっ早速現れたか
 苦虫を潰したような顔でパパスは剣を抜いた。
 来た方向と逆の水路の先から、水が飛び跳ねる音がする。しかもかなりだ。
「リュカ!王子を連れて、早く外へ!」
「わ、わかった。わかった、けど。でも、舟は」
「父さんは泳げる。さ、早く!」
「う、うん」
 話を手身近に終わらせ、リュカはヘンリーの腕を賢明に握り、舟に乗り込んだ。
「ヘンリー。君も漕いでよ。死にたくないでしょ?」
「ちぇ。さっき俺死にたいって言ったのに、まだ生きたいとか言ってたらそれこそ馬鹿みてえ。・・・お前に協力するために漕いでやる」
「ははっ。百人力だよ!」
 舟を漕ぎ始める。次第にパパスが小さくなっていく。背後で水音が、剣の刃が空を切る音が。
 正直リュカはパパスを置いていきたくなかった。皆で一緒に逃げたかった。
 でも。魔物に見つかってしまった今、早く脱出することが先だ。
 それからでいい。こんな暗くてじめじめしたところであれこれ考えても仕方がない。
 さっさと出て、もしお父さんが追いついてなかったら、それから引き返せばいい。ヘンリーを残して。・・・不安だから、プックルも残して。
 無意識に櫂を漕いでいる手が早くなった。お父さんはきっと大丈夫。お父さんなんだもん。
 でも不安だった。違和感という霧が、自分の胸から段々体へと侵食していくみたいだ。
 ずっと、そうだった。ラインハットに着いたときからか、そこに行くまでの時からか。
 ずっと感じてたけど感じてないふりをしてた。人間嫌なことは避けるもので、これほど迷惑で面倒で、でも楽なことはない。
 お父さんだから、お父さんだから大丈夫。自分を騙しながらリュカは賢明に漕いだ。手が赤くなってまめが出来るほど。皮が大きく捲(めく)れても問題がないほど。
 誰の声も何の音も耳に入らない。ただ、自分の心臓の鼓動が耳に痛い。
 やがてごんっと衝撃が来た。着いた。元の場所に。ここからは走ればいいだけだ。
「降りよう!」
 リュカは素早く舟を降りる。「そら」リュカはヘンリーに手を差し出した。ヘンリーはリュカの手を握る。しっかりと。
 そのまま二人は走った。後をプックルが追った。無言だった。魔物も出なかった。あまりの静寂に気が狂いそうだった。今狂乱すればどれだけ爽快だろう。でも出来ない。なんていったって脱獄なのだ。たとえここが魔物たちの巣窟でも、盗賊たちのアジトでも、城で盗みを働こうとした幼稚な者しか入っていない牢でも。
 しかし迷った。行きはよいよい帰りは怖いとはよく言ったものだと、二人は痛感しながら走り彷徨った。慌てれば慌てるほどどこか分からなくなった。プックルがにおいを嗅ぎながら行けると合図を送っても、リュカはなかなかそれに気づかなかったのは気が動転している初歩的なミスだった。もしかしたらパパスのほうが先かもしれない。
 それにしてもなんで、なんでさっきは水路からあんなに魔物が出てきたのに今は何もないんだろう?
 違和感が霧から液体へと、それもどす黒い墨のように広がっていく。
 だからか。太陽の光がかすかにでも見える場所に来た時には感無量だ。もう全てをやり終えた気になりそうになってしまった。
 リュカは一度立ち止まった。引っ張られる形だったヘンリーは一呼吸遅れてそれに気づく。
「はぁ・・・はぁ・・・」息を切らしてヘンリーが叫ぶ。「で、出口・・・出口なのか!」
 階段に躓きマントに躓き床に躓いた二人は、服が破れ皮が擦れて片方は王族と言われたらなんとなく納得できる具合だった。
 リュカは無言で走り出す。ヘンリーの手を握ったままだったから、その唐突な走りにヘンリーは豆鉄砲を食らったようだが。
 出口まで後50m・・・40m・・・30m・・・!
「ほほほほほほほ」
 出し抜けに気味の悪い高笑いがこだました。俄(にわ)かにどこかから起こった笑いが、自分を取り巻いているような気がする。
 ヘンリーは声にもならない悲鳴を上げてリュカの腕にしがみついた。
 何処からだ?何処からだ?!
 リュカは体全身を強張らせた。敵だということはわかる。いや、たとえ敵でもなくて味方でも、今この一国の王子を連れている状況では自分がしっかりするしかない。
「ほほほほほほほ」
 笑い声が止まない。止まないけど近づいてきてる。でも何処?四方八方から声が聞こえてさっぱりわからない。嘔気(おうき)が起こった。
「ここから逃げ出そうとは、いけない子供たちですね」
 笑い声が喋った。それでも不気味だった。尋常の普通の声じゃない。
「少しお仕置きをしましょうか?」
 リュカは聞く耳を持たなかった。自分の闇だ。自分の悪だ。声を振り払いながらリュカは走ろうとした。腕にヘンリーが絡まって、しかも腰が抜けてるもんだから上手く走れたもんじゃない。
「ヘンリー、立って!早く逃げよう!早く、早く!」
「あ、・・・うあ・・・うう・・・」言葉になってない。
「こらこら。およし。無駄だよ」
「くそっ!」
 リュカはヘンリーをあらん限りの力で引っ張った。ひょろっとしたヘンリーの体はそんなには重くなかったが、しかしリュカはここまで長旅を続けている。さっきまで舟を懸命に漕ぎ、ずっと走ってきた。もう体力も頭の中も限界だった。
「ほほほほほ。逃げようとする子供たち。少しお仕置きをしましょうか?」
 目の前の空間がぐにゃりと強引に捻じ曲がる。
 リュカの目の前に不気味な魔物が現れた。
 怪しく光る紫のローブは、まるで漆黒の夜を連想させる。
 天井にまで続く頭巾の下には、真夜中の満月を連想させる目がある。
 怖い・・・恐怖感がリュカの中で膨れ上がる。
 自分が吐く息が白い。改めて気づいて、リュカは背筋が青くなる。吐く息が目に見える。そう思うとさっきの声が自分に纏わりついている気がした。・・・動けない。思うように体が上手く動けなかった。
 怖いのに・・・逃げたい。逃げたいのに・・・動かない。動かないから・・・何も出来ない。
「あ・・・あ・・・」
 意識して声を発してるわけじゃない。恐怖が声を紡ぎ出してる。
「ぐるる・・・」
 リュカとヘンリーの後ろからプックルが牙を剥き唸り声をあげているが、後ずさりをしている。ヘンリーはもう失神しそうだった。
 皆怖いって思ってる。それが分かる僕がなにかしなくちゃいけない。しなくちゃいけないんだ!
 リュカが胴の剣を構えた。震える腕がそのまま剣に伝わる。武者震いだと自分に言い聞かせた。じゃないと自分が保てない。
「おや、小さな戦士リュカ。ちゃんばらかい?いいよ。相手になってあげるよ。ここから逃げようとした子供たちには、ちょっとしたお仕置きが必要だからね」
「あああああああ!!
 リュカは突きの姿勢に構え、大きく不気味な魔物に向かっていった。しかしいくら走っても手ごたえがない。リュカは前のめりにこけてしまった。勢いが自分でコントロールできなかった。
 でも一瞬だけ、ほんの少し感じ難い感覚が走った。風を切ったような感覚。
 それと。
「一寸之虫(いっすんのむし)ともよく言ったものですね。小さな戦士にも少しは勇気があるようですが。わたしの体に傷をつけるなんて・・・まだ早いのですよ」
 リュカは痛みに呻いた。右肘が焼け爛れる痛みだった。
「後悔先に立たずとも言いますね」
「うっ・・・あっ・・・」
 痛い・・・痛い・・・!!自分の右腕から先がもう切れてしまってなくなってるみたいだった。
 何が起こったか理解が出来ない。ただ、痛かった。怖かった。痛くて怖くて、頭の中が真っ黒で真っ白だった。
「ぎゃっ!」
 プックルが意気込み叫んだ。しかしその後にプックルの悲鳴がすぐに聞こえた。
 多分、プックルもやれれた――一瞬だけ脳裏をその言葉がよぎった。逆に言えば一瞬しか考えられなかった。
「や、や、やめろっ・・・!」
 ・・・ヘンリーの声。自分の中にある勇気を多分、全部使ったんだろう。
「そ、そいつはわ、悪くないっ。だ、だから・・・殺るなら、お、俺をやれっ!」
 ヘンリーの本心をリュカは始めて聞いた気がしたが、そんなこと思ったのは一瞬だった。恐怖と痛みがすぐに襲ってきて頭が狂った。
「ほほほほほ。それは勘違いしてますね。わたしは殺すなんて一言もいってないですがね」
「なっ・・・ま、ま、魔物だろ!?だ、だったら、殺るのが仕事なんじゃっ」
「お喋りはそこまで。少々気が荒いですね」さっきまでの嘲笑交じりの声と変わって、その魔物は厳しい声で言った。「いでよ!ジャミ、ゴンズ」
 ぶわっと一瞬風が起こった。リュカの髪とターバンとマントと服とをなぶった。ヘンリーもプックルも、瞬時の風が酷く不気味な場所から生じていることに気づいた。
 さっきと同じ。目の前にいるでっかい紫の魔物となんら変わりのない登場だった。
「何の用であられますか?ゲマ様」
「お呼びでございますか?ゲマ様」
 馬の化け物と牛の化け物。ヘンリーとプックルの目に飛び込んできたのは、そうとしか形容の出来ない魔物だった。
 それなりの美声で、紫のローブを羽織った魔物の名を呼んだのをリュカは聞き逃さなかった。
 ゲマ。・・・ゲマ。
 頭はぼんやりしていたけど、その二文字だけは頭に刻み込んだ。
「その子供達を運んであげなさい。丁重にね。なにせ王子様たちだからね」
「わかりました」
 馬の化け物と牛の化け物の手がリュカとヘンリーに伸びた。リュカは愚か、ヘンリーさえ抵抗できなかった。
 大きかった。天井まであるゲマと並べばこそ小さいものの、化け物達は二人の数倍も十数倍も大きかった。圧倒感とか威圧感とかを遥かに超える、超越した気迫した空気が確実に流れていた。
 太刀打ちできない。ヘンリーは心底感じた。
 自分の体が自分らしくない。いつだって自分は人の上に立ってきてその上で満足感を得てきた。自分より強いのは、親父ぐらいだった。自分の周りには、お城という世界しかなくて、その世界で自分は第一王子だったから。
 でも今目の前にいるのはその世界の外だし人でもない。所詮井の中の蛙は蛇には勝てない。外を知り尽くした蛙にも、きっと勝てない。
 そんなこと、いつでもわかってた。でも現実を見ようとはしなかった。今まで現実を見なくて良かったから、目を背けていられた。
 でも。今目の前にいるのは。
「おら!大人しくしてろよ。大事な奴隷に怪我はしてほしくないんでな」
 牛の化け物に、ヘンリーは襟首を掴まれ宙吊りにされた。牛の癖にこいつ生意気にも鎧なんか着込んでやがる。
 ちっ・・・靴持ってくればよかった。投げて目にでも当てれるのにっ。
「や、やめろっ!離せ!さもなけば今すぐ俺をここで殺しやがれ!こいつは悪くない!その、その猫も悪くないっ!だからっ、だか・・・あ――」
 牛の化け物の左の手(前足の類だろうか)がヘンリーの鳩尾(みぞおち)にヒットした。ヘンリーの体がぐったりと垂れる。さっきまで暴れていた大海を知らない蛙は、蛇の手によってあっさり射すくめられた。あっさりと。
「ふっ。悪気はねえんだ。こちとら仕事のためだし、怪我をさせないで大人しくさせる一番の方法なんだ。おい、ジャミ。そっちの坊主は暴れねえか?」
 牛の化け物が馬の化け物に問う。
「ああ。ゲマ様が少しこいつと遣り合った時の傷が痛むみてえだな。全然問題ねえぜ」
「待てっ!」
 馬の化け物が言い終わるか否かのタイミングだった。これほどまで待ち焦がれた声はない。これほどまで今この場で聞きたい声はなかった。
 ちょっとしゃがれた声、ちょっと渋めの声、ちょっと最近髪が抜けてきたんだとさりげなく愚痴をこぼしてた声、リュカのいつの間にか上がった剣の腕を褒めてくれた声。
「ほほう・・・。パパス。国を捨てたのに、他の国の王子の護衛とは笑止」
「お、お前はゲマ・・・!息子と王子を離せ!」パパスの声を持ち前の良く響く声でゲマとパパスが呼んだ紫のローブの魔物が遮った。「ジャミ!ゴンズ!お相手して差し上げなさい」
 牛の化け物と馬の化け物がリュカとヘンリーを持っていた手を離した。床に叩きつけられたリュカとヘンリーは痛みに悶えた。リュカに至っては、もう限界だった。
 パパスは素早く剣を抜いた。馬の化け物が蹄(ひづめ)を使いパパスに襲い掛かった。パパスはこれを避け、馬の化け物に剣を一突き。――だが掠った!青黒い血飛沫と同時に馬はか細い悲鳴を上げたがすぐに体勢を立て直し、パパスに腕を振り下ろす。パパスは刀身でそれを受け止めるが、なにせ相手は力がある。パパスも力があるが耐えれない。しかもこの間に牛の化け物が刀を振り下ろす。パパスは転がって避けながら剣を振るった。刀身が牛の化け物の体を貫いた。牛の化け物は怒り狂った声を上げて力を絞り棍棒をふりまわす。地面のタイルにひびが入り欠片が宙を舞った。誰も目をくれる者はいず、ただ目立った音も出すことなく、誰も見てないところで静かに動くのをやめた。棍棒はどこを振り回してくるかわからない。ただただでたらめに振られていた棍棒は仲間の馬の化け物にも当たった。「おい、馬鹿野郎!回り見ろっ!」馬の化け物の罵声に牛の化け物は我に返った。・・・が、そのまま踏ん反り返った。体力と気力の限界だったのだ。「くそ!」馬の化け物は吐き捨てると、蹄をまたパパスに向けた・・・と思いきや半回転し、尾を迅速な速さでパパスに向けて振るった。パパスが一瞬怯んだところを馬の化け物は、回転した速度を保ちながら、蹄をパパスの肌に傷つけようとした。風が唸りパパスの髪が数本はらりと落ちていく。見向きもせずにパパスは一閃、確実に一太刀入れた。どっ・・・。地響きで辺りが急に静まり返る。
 その沈黙を一つの拍手が破る。ゲマだった。
「なかなか見事な戦いぶりでした、パパス。・・・でも、こうするとどうでしょう?」
 リュカは髪を掴まれ顔を引き上げられた。「うっ・・・」もうリュカは痛すぎて何が何だか分からない。感覚が麻痺して上と下さえわからなかった。
でも気を失いたくなかった。塞いでしまう瞼をしまらないように維持してるので一杯だった。感覚が途切れる・・・まさにリュカにしてみれば生と死を彷徨っているようなものだった。
 胸のもやもやがまだ自分の中にあった。今ここで気を失ってしまったらいけないような気がする。もう少し・・・後少しでも・・・きっと何かが分かるんだ・・・!
 どくんどくんと絶え間なく鳴る心臓が段々落ち着きを取り戻す・・・もうすぐ意識を失いそうになる。
「ま・・け・・・・・・る・・・」
 嫌だ。自分が自分に負けるなんてみっともない。
 ああ・・・でも。今目を閉じたらどんなに楽だろう。このまま記憶が霞んでいったらどんなに楽だろう。
「・・・だ・・・・・・や・・・・・・」
 別に負けるのが嫌いじゃない。自分が怪我した時にどれだけ痛いかを身を持って実感したから、だから怪我したくないと心底思った。嫌なことから学ぶことはたくさんある。だから負けるのは好きじゃないけど特に嫌いでもなかった。
 振り絞る。自分に弱くなる自分を・・・ただ、精一杯自分と戦うのに必死だった。
 だから気がつかなかった。喉元に何か得体の知れない冷たい物が当たったことに。
「リュカ!」
「これなるは死神の鎌。あなたなら、これで首を刈られた者の命がどうなるか・・・お解かりでしょう?絶えることなく永遠という果ての見えない間、ずっと地獄を彷徨うことになるということをね」
「リュカ・・・!」
 誰かが僕を呼んだ。でも、頭の中を探らなくてもすぐに分かるこの声はとっても悲しそうだった。僕は平気だよ・・・だからそんな悲しそうに僕を呼ばないで。
 からん・・・。何か金属かが地面に落ちる音が余韻を残す。
 リュカは状況がわからない。今、ヘンリーとプックルはどうなって今僕はどういう状況なんだろう。お父さんがきっと、きっと魔物なんていちころにして今帰ってる道中なんだと思いたかった。でもお父さんは髪の毛を引っ張らない・・・いや、今髪の毛を引っ張られてる最中なのか?それさえ理解が出来なかった。
 怖いのと痛いのが自然にリュカを苦しめていた。必要以上に脳内に負担をかけていた、リュカの気持ちに重みを掛けていた、そう――今なら。今なら目を開けれる。今なら、少しは動ける。きっと動ける。自分に、勝たなきゃいけない。
「っ!」
 いきなり地面に叩きつけられた。足を捻ったかもしれない。動かないから。膝が擦れたかもしれない。沸々と痛むから。肘から手にかけて大きなかすり傷があるかもしれない。熱を帯びたように感じるから。
 うっすら、目を開けた。開けてみる。開けてみる。視界が黒から幕が開くように色がつき始める。水彩画のように明瞭としない景色がやがてしっかりと形を持ち始めた。
 プックルがすぐ側を倒れていた。ヘンリーが少し遠いところで四肢を伸ばして気を失っていた。
 リュカは、
 惨状を、
 見てしまった。
 しばし沈黙があったように思えたのは、多分リュカだけだった。
 真実ってなんだろう。目に見えるもの?見えないもの?それだけなのかな?見えるけど見ようとしないから見えないもの?見えないけど見ようとして見えちゃったりするもの?見えるけど見えないふりを皆がしてるもの?見えないけど見えるふりをして皆がしてるもの?
 動けなかった。別に、もう痛みは感じなかったんだけれども。
 父が。あの勇ましかった、誰にも負けなかったお父さんが。なんで、なんで剣を捨ててるの?!なんで反撃しないの?!ああ、傷が酷い。お父さんの周辺が赤い。なんで?なんでって・・・ち・・・血なの?お父さんの血なの?お父さんの血じゃなかったら魔物の血なの?でも魔物がお父さんを殴ってる。引っ掻いてる。ねえ、誰か今の状況を説明してよ。何が起こってるの?何が起こってるの?!
 父が崩れていく。あの勇ましかったお父さんが。
 時間がスローモーションのように、ゆっくりと・・・ゆっくりと流れた。
 信じたくなかった。でも、リュカは瞳孔を大きく開いてじっとそれを見ていた。
 どさっ・・・。傷だらけのパパスが地面に叩きつけられた。
 嬉々とした高笑いの声がリュカの耳に響いてきたところで、聴力が戻ってきたことにリュカは気づいた。後ろを仰ぐと、紫のローブが揺れていた。笑いが止まらないといったところだった。
しかしリュカは痛む体を引きずって、父に近づいた。長い時間だった。床で擦った膝の痛みなんてどうでもよかった。途中で靴が片方脱げたけど関係なかった。
 ただ父に触れて、感じたい。真実?今この状況は真実?あの、感じていた黒い霧のような墨のようなものも、この元凶を示していた?このときが近づいていたから、不安が大きくなっていった?
 嘲け罵り見下す大きな二つの化け物の隙間を縫って、リュカは父に近づいていく。リュカが通った後に点々と血があることも知らずに。足を引きずった後が、血を残していることも知らずに。
 父に近づく前に、リュカは手を滑らせた。ぬるりとした感触が血だと気付いたのはもっともっと後のことで、掌が真っ赤に染まったこともリュカは気を遣わなかった。
 ふっと遠慮がちにリュカの体に何かが触れた。リュカは驚いて体を痙攣させる。
 それは父の手だった。大きくて熊のようにあったかくて、でも今は頼りなく手は震え血に塗(まみ)れていた。リュカはその手を握った。
「お父さん・・・お父さん・・・」
「リュカ」
 小さくか細い声だったけど、リュカは聞き逃さなかった。今まで聞いた“リュカ”の中で一番弱そうだったけど、今までで一番優しく呼んでくれた。
 薄っすらとパパスは目を開けていた。その顔にも無残にいくつもの傷があった。
「お、おとうさ・・・とうさ・・・ん・・・」
 駄目だ。見えない。ぼやけて、父の顔が良く見えない。
「リュ・・・カ・・・」「お・・・とう・・・さん」
 苦しそうに父は呻いた。リュカはこの父に対して何も出来ない。唇を噛み締める。
「お・・・お前の・・・かあ・・・さんは・・・生きて・・・」パパスが唐突に咳をした。口から、吐瀉(としゃ)物と血が混交した物体が出てきた。「お父さんっ」「わし・・・に代わ・・・って・・・」
「お喋りはそこまで。さ、いい子のリュカ。こちらへおよし。家族のいない子供でも、幸せな生活を保障するよ」
 ゲマの美声がぴしゃりとパパスの弱々しい声を遮った。
「パパスは過去に何度も我らの策略を破ってきたのです。お仕置きも何段も高いものにしなければならない。けれどリュカ。君はこれからわたし達に貢献する、これほど幸せなことを行える義務があるのです。光栄だと思いなさい。さ、小さな子供リュカ」
 しかしリュカは聞く耳を持たなかった。父の顔をずっと見つめていた。薄っすら開いている父の目を一心に見ていた。リュカとパパスの目がひしと見詰め合う。父の息が荒くて時々痛そうに顔を歪め目を瞑る。それでもリュカはじっと見ていた。
「あっ・・・!」
 体が浮かび上がった。後ろから馬の化け物に抱きかかえられ、リュカはパパスから遠ざかる。リュカは必死でもがいたが、リュカの体力も限界という言葉さえ果て遠い程過ぎている。
 父が遠くなる。段々遠くなる。それでも父は一心に見ていた。リュカももがきながらもずっと見ていた。父が一瞬薄く笑った。ぼやけて歪んだ景色が父をさらに見えなくする。遠くなる。ぼやける。父が、遠ざかる。
 何か背後で、エネルギーが凝縮される。背後で、何かが。
 ふっと熱いものがリュカの横を掠めた。じゅっと空気が焼ける音が聞こえたような気がした。
「ぬわーーっっ!!」
 リュカの瞳に、炎が映った。
 あの、父が。虎のように気高く、熊のように温厚で、包み込んでくれるお父さんが、
 炎に・・・焼かれている。
 絶叫と悲鳴を足しても絶対この声には届かない。
 父が、最後の一声を放って、火達磨(ひだるま)になる。
 リュカは狂乱した。
「ああああああああああ!!あ・・・あ・・・」
 痛い・・・痛いよ・・・。
 どこが痛いか分からない。体全体が痺れるように痛かった。でも特に胸が痛い。焼けるように痛い。
 父の変わりに自分が焼かれているみたいだった。瞳に映ってるこの赤々としたのは、実は自分が焼かれているから見える光景なのではないのかと錯覚してしまう程だった。
「あ・・・ああ・・・」
 しわがれた老人が漏らすような声がリュカの口から出る。
「ほほほほほほほ。美しいものですね。子を想う親の気持ち、親を想う子の気持ち。だからこそ繊細で儚い・・・。尊いものですね。心配 、パパス。あなたの息子は、死ぬまで神殿で栄光にも働く義務が与えられるのだからね」
 誰かが何かを、すぐ近くで喋ってる。リュカにはそれさえよくわからない。
 時が止まってほしい。戻ってほしい。ラインハットに行かなければ、こんなことにはならなかった。だから、だから。そこまで、どうか戻ってほしい。
 神様はなんて残酷なんだろう。どうして魔物が父を子の前で殺すのをただ見守っているだけなんだろう。唯一無二と謳(うた)われている神は、何をしてるんだろう。時間を戻してよ。こんな、残酷なことをしないでよ。
 リュカの膝から滴る血が、火の粉が散る父が、時間の流れを必死にリュカに訴えているが、リュカには何も感じられない。
 なにもかも、全ての感覚が麻痺して、リュカは色を失った。音を失った。父という世界の大半を失った。言わば荒野に佇み、何も出来ない。縁(よすが)もない、何処を歩いても同じ景色。何が起こってもどうにも出来ない。
 父が、遠い。遥か先にじっと目をやっても、父の姿は、もう何処にも見えない。目を凝らしても荒野の茶褐色と目に痛いほどの青空だけしか見えない。
 リュカはずっと見ていた。頬を伝う涙はリュカの中の悲しいものを一緒に流し出してはくれなかった。
 炎が弱まっていく。父が、父でなくなる。灰という見るだけじゃ元の形が綺麗さっぱり見当がつかない形になる。
 リュカは馬の化け物に抱えられたまま、うつらうつらとリュカは寝てしまいそうになる。化膿(かのう)しかけている足は既に感覚がない。右腕は焼け爛れ見れたものじゃない。彼は疲れている。何かを考え、行動するには疲れている。意気阻喪(いきそそう)している。
 頭に焼きついた言葉、ゲマ。それと、パパスが話していた、母は、生きている。
 それだけ。それだけ。リュカを、生きさせる杖は、それだけ。
「ジャミ、ゴンズ。この子供達を運び出しなさい。丁重にね」
 ゴンズは意識がないヘンリーを抱える。
「ゲマ様。このキラーパンサーの子はどういたしましょう?」
「捨て置きなさい。野に帰れば、やがて魔性を取り戻すはず」
「はっ」
 ジャミとゴンズがゲマに近づく。リュカは閉じていってしまう目を開いて、ゲマの顔を覚えた。ローブの下から爛々と黄金(こがね)色に輝く一対の瞳は、見るだけで気分が悪くなった。左右まで裂けている唇。後は見ているだけで感覚が狂ってしまうような苦悶してしまいそうな紫黒色(しこくしょく)。
 仰視していると、黄金色がこっちを向いた。
「さ、いい子だ。行こう」さっきまで高笑いしていた、今は柔和な声をリュカは中絶する。「ぼ、僕を・・・僕たちを、どうする気なの・・・?」
 微(かす)かに、黄金色の目が笑った。
「とってもいい所へ連れて行くんだよ」
 それだけ言うと、ゲマは低い声で呟き始めた。ふわりと魔法の匂いをリュカは鼻腔で感じた気がした。
 しかしゲマは何かに気付いて呪文を止めた。
「おや、何か不思議な宝石を持っているね。ちょっと見せてごらんなさい」
 リュカは一瞬息を呑むような緊張感を覚えた。
 黄金色の、宝石。
 ゲマの陰惨で夜陰の間に輝くような黄金色の瞳とは全く違う、鮮明で煌々とした黄金の色をしたその珠はリュカのポーチの奥底できらりと光った。それがゲマの目についたのだ。
 リュカははっとして自分のポーチを押さえた。
 するとゲマは不気味に笑った。
「ふむ・・・。ちょっと見せてくれないかな?」
 嫌だっ。そう言ったつもりだったが、口が声を紡いでなかった。
 有無を言わさずジャミがポーチを引っ張った。ポーチが千切れる。ころんと鈍い音を立てて黄金の珠が転がり落ちた。
「あ・・・」声にならない声をリュカはだした。声という程でもなかったけど、確かにリュカは小さく悲鳴をあげた。
「これは・・・?」
 触らないでっ・・・!そう言おうとしたけど、疲れて口が開かない。声帯が機能しない。
 ゲマが拾い上げようとするとぱちりと一瞬電気が走った感覚に手を引っ込める。
 リュカはほっとした。触られなかったから。
 だって、あれはビアンカとレヌール城でお化けを退治(というより逃避)した後に、亡くなった王様と王妃様に貰った物だった。その日の夜を現実味を帯びて思い出さしてくれる、唯一の品。
 それにとても大事な物だからと念を押されたのだ。レヌールの王と王妃に。
 しかし、次のゲマの一言に背筋が凍った。
「ふん。厄介な物だ。こうしておくか」
 ゲマが指先を輝く黄金色の宝石へと向けた。青白い光が鋭い音を出して走る。
 珠にひびが入る。粉々に、砕ける。
 リュカは呻いた。何か、とても大変なことをしでかしてしまった。
 でももう遅いんだ。もう・・・何もかも。今更、父親のぬくもりを探しても。もう、一生無理なんだ。もっと甘えておけばよかった。城であんな態度しなければよかった。後悔はするためにあるんだ。なんて嫌な言葉なんだろう。
そんなことを考えているうちに、
 リュカの双眸(そうぼう)は完全に閉じた。
 
 お母さんは、生きてる。お父さんの代わりに、探すよ・・・?
 
 僕、頑張るよ・・・。
 
 

 ドラクエ史上、一番残酷なシーンを手がけてしまいました。

完成に約2ヶ月以上。更に途中でスランプも入り、かなりやばい。でも頑張って完結させました。

というか単純に「ぬわーーっっ!!」がやりたかったのかも。

何気にかなり流血だらけだけどまあいいよね。やりたかったんだ、いいじゃないか。

書いてる時にリュカ・・・こいつ、絶対6歳じゃないと思った。大人びてる。12歳じゃないのか。

そういう突っ込みはやめてくださいね。きついから。