I Love...

 

 名もない山奥の村だった。
 名もない山奥の村で育っても、僕に名前はあった。
 人々は僕をレイと呼んでいた。
 
 
 
 
「レイ!」
 っとっとと!
 どん!と勢い良く背中を押される。僕は対処しきれずたたらを踏んだ。
 後ろから押した人は今しがた考えていた人だった。
 朱鷺(とき)色のつややかな真っ直ぐの髪が腰辺りまである。瞳は大きくて髪の毛と同色。今日の服は白いローブにピンクコスモスの花をさらさらの同色の髪に刺していた。今日はいつにもましてシンプルだ。でも顔立ちもスタイルもいいから、下手な飾りをしないシンプルなファッションは彼女の綺麗さを際立たせる。
「これから、小父さんにお弁当持ってくの?」
 鈴を転がすような声で彼女は言った。
「ああ。多分、親父はいつものところで釣りしてると思うけど。・・・シンシアも行く?」
 親父が何年もかけて見つけた、絶好の釣り場所。確かにあそこは結構釣れるのも僕でも知ってる。
「ええ!今とっても暇だったの」
 シンシアはピンクの髪を揺らして、微笑して答えた。
 僕は頷いてシンシアに手を差し出す。彼女は何の躊躇いもなくむしろ嬉しそうに細い、今にも折れてしまいそうな手を出して握ってくれた。僕も壊さないように、でもしっかり握り返した。
 シンシアをちらと見ると小鳥のようにくすっと笑った。
 それから思い出したような顔になって、いきなり別の話題を切り出した。
「そうだ。知ってる?ファブがね、村の掟を破っちゃったの」
「村の掟って・・・外の人と関わる・・・ってやつ?」
「そうそう」シンシアは何度も頷いた。「今ね、ファブの宿にいるのよ」
「ふうん・・・」
 僕は思案顔で俯いた。すぐに顔を上げて不敵に笑ったと思う。
「いいんじゃない?」
「え・・・何言ってるのよ!」
 シンシアが突っかかってきた。この村の人は、すぐこんな反応をする。
「だって、村の人がおかしいじゃないか。なんで全部自給自足で暮らしてるんだよ。世の中知っちゃいけないのか?特に僕については皆、口を酸っぱくして言うんだ。絶対出るなって。おかしいじゃな」
「レイ!」
 シンシアが疾呼する。頭に上ってた血がゆっくりと落ちていく。
「・・・ごめん。もう言わないよ」
「・・・ん」
 いつもこんな感じだった。でも僕は間違ってないって思う。
 だって村の人は本当に一歩も外に出ないし出してもくれない。
 外に何があるかも分からない。もっと知りたいって思う。村の人達が外に出ることを止めれば止めるほど、更に興味を惹かれるんだから。
 
「父さん」
「ん?ああ、レイか。寝てしまったようだな・・・」
 そんな悠長に・・・。もうすぐで川に落ちそうだったし、もうちょっと危機感ってのはないのかよ。
「ほら、弁当だよ。もう、ちゃんと夕飯釣ってきてくれよ」
「はっは。すまんすまん。お、シンシアもいたのか」
 ・・・寝ぼけてるのか。さっきから僕の隣にいるじゃないか。
「はい。こんにちは」シンシアが笑顔で答える。
「こんにちは。お、レイ。シンシアのナイトのつもりか?」
「はぁ?」
「ほれほれ、手なんて繋いで」
「ばっ、ばっか。んなんじゃねえーよ」手をぱっと振り解く。
「何言ってる。顔赤いくせに」
「っなわけあるかっ」
 たく、父さんのやつ・・・。
 父さんを睨んでいると、突然シンシアが笑い出した。
「ふっ、ふふふ」
 急に恥ずかしくなって俯いた。父さんは一緒になって笑い出した。
 ったく。なんだよ二人して。
 ぶっきらぼうな顔をして睨んでも二人は笑い止まない。むしろ更にこみ上げてきてる感じ。失礼にも程が・・・。
 でもやっぱり見てたらなんだかおかしくなって、釣られて笑ってしまった。
 笑い声が耐えない、こんな日が続かないことになるなんて。もちろん、知るよしもない。
 
「おし!今日はこれぐらいだ!」
 スペルが言った。いつも剣の稽古をしてくれる人で、ちょっとぼさぼさした黒髪を後ろで結ってる。結構ナイスガイだとは思う。
「今日もありがとうございます」
 武道というのは礼儀だ。スペルはいつもそう言う。だから始める時も終わる時もしっかりと深々と頭を下げ、敬意を持って礼を言わなければならない。
「こちらこそ」
 スペルもしっかりと礼を下げる。それから互いにしっかりと手を握り合う。
「今日も調子いいな!終わった後のさっぱり感がいい感じだ」
「ああ。スペルの教えがいいからだよ」
 緊張の糸がほぐれたようにお互い肩を抱いて歯を見せて笑いあう。
 スペルは僕よりも5つぐらい年上なだけで、稽古以外のときはいつもこんな感じでいい男友達だ。
「ったく。お世辞がうめえなレイは!違うって。お前の腕がいいんだ」
 僕の腕がいいなんて冗談だろ。数年経ってもスペルをちっとも越えりゃしないじゃないか。超えなくてもちっとも近づけないじゃないか。
「ん?どうした。レイ。俺なんか悪いこと言った?」
「それってさ」村の人が外に出してくれないのと共通の理由があるのか?僕に何かあるから・・・。
 言おうとして言わなかった。
「なんだよ。早く言えよ。じれったいじゃないか」
「・・・いや。なんでもない。ちょっと気分悪いから帰るわ」
 もちろんそれは口実だった。
 突然思いついた。あの、ファブに助けられたという人に。あってみたいという気持ちがふつふつと湧いてきたのだ。
 物事を確かめる。それもこそこそ隠れてだとは思う。この村の人が僕のしたいことをあっさりさせてくれるとは思わない。だからそれにはスペルは正々堂々で完全に真っ直ぐ者だから、抗議は目に見えてる。
「はぁ。ま・・・ん、お大事にな」
 肩を叩いて、スペルは歩き出す僕の背中を叩いた。
 ごめんな、というように片手を挙げて、向こうも返してくれた。
 ごめん、スペル。本当に。
 
 ファブの家は宿屋だ。この村の人以外、誰もここの存在を知らないらしいのになぜ宿屋をやる必要があるのかよくわからないが、とにかく宿屋だ。宿屋というのは人を泊めて“お金”というものを稼ぐものらしいのだが“お金”という物がよくわからない。何のために必要なんだろうと訊くと、外で暮らすのに必ず必要なものだと返された。必ず必要な物って服とか靴とか食料とかに似たものかと問いたら、それらと交換するための代物だとか返された覚えがある。
 そんなことはともかくだ。今は外から来たという人が気になる。生まれてから一歩も外に出せてもらえずなんだ。小さい頃はここの村の人だけが世界の全てだとさえ思っていた。その僕が、初めて見れる外の人。
 ファブの家は村の中で二番目に大きい。一番大きいのは長老の家だけど。
 それにファブの家は大きな庭があって気がたくさん立ってる。大きな窓もある。窓というよりガラス戸。上手く隠れながら行けば、その村の外の人を見れるかもしれない。
 昼前から村を歩いてる人がたくさんいるが、茂みに身を隠しながらなんとか行き着くことができた。
「ふぅ・・・」
 着いた途端、安堵の溜め息をつく。同時に胸が高鳴ってる。
 どんな人なんだろう。シンシアみたいに可愛い女の人とか、父さんみたいにおちゃらけた男の人とかだろうか。いや、もっと世界にはいろんな人がいるからそういう風に村の人と同じなわけはないよなあ。
 木の裏で鼓動が収まるまで待った。やっと落ち着いてきた。
 ちらりと窓を見た。
 姿が・・・かろうじて見えた!
 そこには見たことのない。長身で銀髪でルビーの鋭い眼光を持った男の人がいた。全身暑いぐらいの黒いローブ。
 一番目を惹かれたのは耳だ。シンシアの耳と同じようにとがってる。
 彼はベッドの上で足を組んで、何か分厚い本を読んでる。
 息を呑んだ。あの端正な顔立ちにじゃない。この村にない不思議な装束にではない。
 常にある彼の周囲の気に、だ。何事をしてても、きっとあるだろうと思うしっかりした気に。違う。しっかりしたって言わない。むしろ邪気という言葉がピンと来る。
 あれが・・・外界の?とんでもない!僕なんか剣の打ち合いであっさりやられてしまいそうだ。スペルでも無理かもしれない。
 きらり。
 ・・・え。今の・・・ばれたかもしれない。あの人の目が一瞬光った。慌てて木の裏に隠れる。
 なんだあいつ・・・。ただ者じゃないじゃないか。あんな歩く凶器みたいなの。
 がらっと大きな窓というか、もう半分ドアみたいな感じの窓が開く音がした。
 心臓が激しく鳴って、冷たい嫌な汗が体を伝う。
 まずい。ばれたかも。下手したらファブを呼ばれて見つけられて父さんにこっぴどく言われるかな。いや、それじゃすまないか。あの気だ。実は大変危ない者かもしれない。なんだってファブはあんな人を助けたんだ。お人よしめ。
 さっきまでの興味はどこへやら、僕はすっかり蛇の目の前にいる蛙のような状態だった。
《ふふ・・・とうとう見つけたぞ!勇者を!伝説の勇者を!》
 いきなり頭の中に声が届いた。恐ろしく棘のある冷気のような声だった。冷や汗どころじゃない。頭が狂って倒れてしまいそうだった。
 な、何なんだ・・・。耳を通して入ってこないこの声は・・・。それに、勇者って・・・?
 実際、意識が遠のいていったのは事実だった。
 だって昼前だったくせに気づけば夕方なんだから。
 しかもただならない気配と、蒼白な顔をしたシンシアと親父とスペルに起こされたのだから。
 
「おったおった!全く、こういう時にお前はここで何をしておるんだ!」
「ったた!痛いって父さんっ」
 髪を引っ張るからたまったものじゃない。慌てて父さんの手を振り解いた。
「とにかくっ!早く逃げろ!」
「・・・え?」
 てっきり怒られるのかと思った。でも、三人の表情をよく見たら怒りよりも諦めが浮かんでる。
「いいか。レイは希望だ。世界が悪に包まれた時の希望の光」
「な、何言ってるのさスペル。僕が曲がった事したから嫌がらせのつもりかい?」
 苦笑しながらスペルに言った。でも、自分の言ったことのほうが冗談だ。スペルはいい男友達だが、決して嫌がらせなどしない。たとえどんな理由があっても真正面で話し合うのがスペルだ。
「レイ。お願い。早く着いてきて。あなたがここにいたことは誰も攻めない。あなたが死んでしまっては何もないの。お願い」
 必死に訴えるシンシアの声は涙ぐんでた。
 なんだって言うんだ。ドッキリか?きっとひねくれたこの根性を見かねてスペルが提案したに違いないんだ。そうだ。きっとそうなんだ。
 でもそれは気持ちを支えるほんの一時しのぎに過ぎなかった。
 さっきスペルは真正面で話し合うやつだと心の中で言ったのに、なんだ。ドッキリなわけないじゃないか。
「と、とにかくスペル!レイをあの地下奥に送ってくれ。加勢はそれからでいい」
「ええ。心得てます。さあ、レイ!行くぞ!」
 スペルが無理矢理僕の腕を引っ張り始める。
「ま、待ってくれよ!何の話なんだよっ」
「・・・魔物だよ」
 低い声でスペルが答える。
「・・・え?」
 魔物?僕は冗談交じりに笑った。
「何言ってんだよ。魔物ってなんだよ。悪いことした僕への嫌がら」
「俺はお前が好きだ」
 ・・・はぁ?!何言ってるんだ。男に告白されても嬉しくないって。
 まだ僕はしらばっくれて冗談を言おうとしたけど、有無を言わさずスペルが腕を引っ張った。
 たたらを踏みながら、力強く引っ張るスペルの腕を払おうとしたけど無理だった。何せ5歳も歳が違う。力の強さで勝てるはずがなかった。
「ちょ、ちょっとスペルっ。痛いって」
「お前は黙っとけ」
「ってて。何がどーなってるんだよっ」
「さっき言ったじゃないか。魔物が現れたんだよっ」
「魔物ってなんだよっ。子供だましかっ?」
「馬鹿野郎!」
 バシッ!と気持ちいいぐらいの音が辺り一帯に響いたと思う。
 さっきからずんずん引っ張られてたから表情がわからなかったけど、スペルは泣いてた。めったに泣かないのに。・・・いや、彼は泣かないやつだった。始めて見た。スペルの泣き顔を。同時に泣きながら怒ってる顔で僕の頬を思い切り引っぱたいたんだと気づくのに、しばらく時間が掛かった。
「お前が生きてなきゃ、この村の苦労が報われないんだ!お前を倒すために魔物が来てるんだよ!お前が殺されたら何にもなんないんだよ!」
「な、何言って・・・」
 僕を倒すためにだって?
 言い返そうとしたら、スペルがものすごく気迫の入った落ち着いた低い声で呟いた。
「レイ・・・ある国の言葉で“勇者”という」
「ゆ・・・うしゃ・・・?」
 さっきのあの空恐ろしい男も“勇者”だとかいう言葉を使ってた。
 何なんだよ勇者って。
 訊く暇もなく、引っ張られるまま村の奥の地下室へと送られた。
 ここで剣の特訓をしてる時もあった。つぼの中に水を入れて持ち上げたりする筋トレの時もあった。
 でも知らなかった。そのつぼの並んでる奥に隠し扉があって非常食など置いてある部屋に繋がってることなんて。
 僕はそこに着くと、いつになくぶっきらぼうにスペルは腕を放した。半分投げられたも同然で思い切り倒れこんでしまう。したたか手を打った。
「レイ。俺は本当にお前が好きだよ・・・」
 涙ぐんだ声が後ろから聞こえたかと思うと隠し部屋の扉が閉められた。遠ざかる足音。
「ちょ、ちょっと待てよスペル!僕が勝手に悪行をしたことは謝るから!」
 !?扉が・・・開かない?
 引いても押してもビクともしない。
「スペル!開けてよスペル!」
 どうにもならなくて次第に疲れて諦めて、扉をいじるのをやめた。
 床に転がって。頭を冷やし整理するのが賢明だと感じたから。
 そもそも“勇者”ってなんだよ。ある国の言葉で・・・?レイが勇者だって?
 笑わせる。僕が勇者なわけがじゃないじゃないか。
 希望だってのも、希望の光だってのも・・・。
 でもだったら村の人が僕を必死に外に出すまいとしてたのと何となく糸でつながれてる感じがするじゃないか。
 勇者イコール聖なる者イコール邪悪な者の敵イコール魔物や悪魔の敵。敵を倒すのは当然な行為だ。
 昔から鍛えられてきたこの体。でもスペルには正々堂々で叶いっこない。魔法も叩き込まれたけど正直使えない。
 その僕が・・・なんで“勇者”といわれなきゃいけないんだ。
 これはやっぱりドッキリだ。そうだそうなんだ。
 自分に言い聞かせていると、いきなり爆音がした。地下室全体が大きく揺れる。外から悲鳴が聞こえた。ときの声が聞こえた。あれは長老か?あれは父さんか?あれはスペルか?でも、あれはなんだ?奇声みたいな、布を裂くみたいな嫌な声だった。それが何十も何百も。
 ・・・!あれが、魔物?
「さあ!“勇者”を倒したものには褒美と地位をとらす!首を持ってくるがよい!」
っ!!こ、この声は・・・。あの黒装束の男・・・!
 そう思った途端、扉が突然開いた。今日の中で一番心臓が飛び跳ねたに違いないのは確かだ。
「父さん・・・」
 武装してる父さんだった。大きなサーベルを持ち、鉄のフルメイルや兜を被っていた。よく見れば防具類には血飛沫がついてる。燃えた後のような焦げた部分もあった。
「レイ。言いたいことがあってきた。聞いてくれるか」
「な、なに改まってんだよ父さん。そんなことより僕も戦わせてくれよっ」
「・・・それは無理なんだ。わかってくれ。それより言わなきゃいけないことなんだ。レイは聞かなきゃいけないことなんだ」
 そこまで言って父さんは黙り込んだ。
 なんだよ・・・。暗い話なのか?実は嘘でしたなんて言われれば嬉しい。でも爆音や戦闘音は絶えやしない。今も止むことはない。奇声に悲鳴に鉄のぶつかり合う音、燃える音。
「お前はな、父さんの子供じゃないんだ」
 ・・・え?回りの音に消えてよくわからなかった。きっとそうだ。父さんが小さな声で呟くように言うから聞こえなかったんだ。
 僕が父さんの子供じゃないなんて冗談にも程があるじゃないか。そうだきっと聞き間違いだ。
「聞こえないよ。もう一回言ってよ」
 苦笑交じりでそう言うと、父さんが顔を上げた。
「だから!お前は・・・父さんと母さんの子供じゃないんだよっ!!そうさ。母さんは子供を産める体質じゃないんだよ」
 ・・・な、何言ってるんだよ。冗談だろ?思わず苦笑が引きつった。
「じゃ、じゃあ本当の両親はどうなんだよ。いないだろ?冗談は止めてくれよ父さん」
「冗談じゃないって言っとる!さっきからずっと。何もかも全てが真実だ。本当の両親は・・・それはまだ言えん」
 僕はすごい剣幕に押されて何も言えなかった。いつもお調子者のおちゃらけた父さんとは全然違う。軽い服を着てる軽い父さんとは違う。
 これは夢だ。きっと。夢だ。悪夢だ。嫌な悪夢だ。
 父さんに背を向けて目をつぶって頭を押さえて、起きろ起きろと自己暗示をかける。
 背後で静かに扉が閉まる音がした。
 それから数刻立たないうちに、また扉が開いた。
 ピンクコスモスのような朱鷺(とき)色の思わず梳(す)きたくなる髪。大きなつぶらな瞳を今は悲しみと怒りと諦めが染めていた。
「レイ・・・!」
 シンシアは僕の姿を認めると真っ先に飛び込んできた。思わず抱き合った。シンシアの華奢な体系が、今はいとおしい。
「シンシア・・・。どうなってるんだよ。今のこの状況・・・説明してくれよシンシア・・・」
「レイ。あなたを殺す者がここに来てるのは真実よ」
 真実ってなんだよ。夢の中だったら真実もくそもないじゃないか。起きたらはいおしまいじゃないのかよっ。
「レイを殺させはしない」
 シンシアらしくない低い声でシンシアは言うと、僕の唇に唇を重ねた。
 甘い香り。このまま消えてしまいそうに儚いほどの優しい香り。柔らかい唇はしっかり現実味を帯びていた。
 何秒そうしたろう。数秒だったかもしれない。数分だったかもしれない。
 お互い唇を離して見詰め合った。
 シンシアの両手が僕の頬に触れた。白くふっくらした手。細い指にピンクの爪。
「これからも生きて、しっかり生きて。生き延びて」
 涙をためたシンシアの瞳から、一筋の液体が伝う。
 シンシアはそれから低い声で暗号を言い始めた。・・・魔法の詠唱?!
「モシャスっ!」
 モシャス?!変身魔法だ。先日は大きな蛙になって驚かされた覚えがある。
 ・・・僕?!シンシアが、僕そっくりに・・・?!
 まさか!まさか!
 脳裏に嫌な考えが浮かんだ。
「シンシア!」
 僕の姿のシンシアが立ち上がる。
「生きてね、レイ。必ず・・・!・・・さよなら」
 そういって、僕の腕をまるで猫みたいにすり抜けて力強くドアを閉めていった。
「・・・っ!シンシアっ!シンシアっ!!なんで・・・なん、で・・・」
 夢であってほしい。今ここで起きたら飛び切りの笑顔のシンシアが花畑で歌ってる。小鳥のさえずりみたいに可愛くて儚い、今にも壊れそうな・・・ガラスよりもダイヤモンドにたとえたほうがよほど賢いぐらい繊細な声で。僕が起きたのを見たら歌をやめてしまうだろうけど、代わりにこの世に存在することが摩訶不思議なほどの笑顔でこう言うんだ、きっと。
『おはよう、レイ』
 ドアに拳を何度も叩きつけて、自分を何度も叩(はた)いた。でも爆音はやむことはなかった。奇声は、悲鳴は、いつまでも耐えることがなかった。いつまでも、永遠にすら感じるほど鼓膜に響いて、同時に頭の中を支配する。
 ああ夢だ夢だ。これは夢なんだ。だって起きたら飛び切りの笑顔のシンシアが花畑で・・・歌ってるはずだから・・・。
 
「デスピサロ様ぁ!ゆ、勇者をしとめましたっ!!」
 嫌に耳障りな声が頭上から聞こえた。
「ふむ。でかした。間違いなく勇者の首、わたしは見たぞ!後に褒美をとらす故。さあ!皆の者!引き上げじゃ!
 人間のような、でも恐ろしく棘のある冷気のような声。・・・あの、黒装束の声だ。今はしっかり耳という器官を通して、頭に入ってくる。
 勇者を、しとめただって・・・?
 勇者って。しとめた・・・?ど、どういうことだよ・・・。
 それより別の言葉が胸にしっかり刻まれた。
 デスピサロ。それが、この魔物たちの長。黒装束の男の名前に違いないって確信した。
 
『いいか。レイは希望だ。世界が悪に包まれた時の希望の光』
『レイ・・・ある国の言葉で“勇者”という』
『お前はな、父さんの子供じゃないんだ』
 
 今日、衝撃的だった言葉たちが頭の中で整理されて僕を押し潰す。
 そして、モシャスで僕の姿になったシンシアの去り行く姿が脳内にふと蘇る。
 
『デスピサロ様ぁ!ゆ、勇者をしとめましたっ!!』
 
 しとめただって?きっとそれは・・・。それは。
 勇者なんかじゃなくて良かった。村でのんびり暮らしたかった。勇者であって何があるものか。自分の村なんて守れなかったじゃないか。大切な人たちを・・・!
 上から物音はしなくなった途端、扉がゆっくりと開いた。
 度肝を抜かれそうになったが向かい側は誰もいなかった。後でこの扉は魔法が掛かってたのだろうということを理解した。
 一枚扉の向こう側は、剣のレッスンの時によく使った部屋だ。
 スペル・・・。いいやつだった。・・・いや、過去形にしたくない。きっと上が静かなのは皆が体力を消費してしまってるだけなんだ。喋りたくもないぐらい。
 でも、階段を上れなかった。足がすくんでしまって思わず階段に倒れこむ。まるで自分の体が自分じゃないみたいな感覚になった。吐き気もした。
 上から降りてくる臭い。これは血の臭い。燃えた後の臭い。それらが混じった臭い。それに吐き気がしたのだ。
 今・・・上はどんな状態なんだろう。閑寂としていて荒涼としていて、それはもう村の面影を何一つ残してないのかもしれない。
 見るのが恐ろしかった。でも、見てしまわなければいけない衝動が体の中を駆け巡る。
 
 空寂としていた。地下から出た直後に見渡す限り、人の姿など見えやしない。
 み、みんな・・・隠れてるんだろ・・・?姿を見せてくれよ・・・。笑顔で・・・。
「うわああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
 なんで、なんでだ!!!!夢だろ!!覚めろ!!!覚めてくれよっ!!
 な、なんだよこれは・・・。誰も、跡形もないじゃないかっ。瓦礫が足の踏み場もないほど散らばり、血や肉が飛び散ってる・・・。
 そこで、苦痛に歪んだ顔だけ転がっていて体がない父さんを想像してしまった。焼け爛れた皮膚を見せている醜い姿をした母さんを想像してしまった。最後まで剣を握っている、でも両足がぶった切られたスペルを想像してしまった。
 更に、
 首のなくなった、
 シンシアを、
 想像した。
 思わず吐きそうになった。本当に、あと少しで吐くところだった。
 やがて村の中心に来た。花畑がいつも綺麗でここでよくシンシアと転がったりして遊んだ。
 でも、今はただの荒地。花畑は枯れ果て血肉が飛び・・・。
 そこに寝転がった。いつも二人で転がっていたその場所に。倒れこんで砂を手ですくった。手の隙間から濁った砂が落ちる。
 なんだよこれは。冗談も程々にしてくれ・・・。僕が勇者だというなら、今ここの人たちを救う力をくれ・・・!
 ・・・・・・。
 ・・・どうして、どうして駄目なんだっ。勇者だと言うんだろう。勇者なら、勇者ならそれぐらいの力をくれよ。神様というのがこの世にいるなら、今その力を・・・。いや、そんなものいらない。ただ夢から覚ましてくれ。この悪夢を終わらせてくれ・・・。
 辺りは恐ろしいほど静かだった。周辺が山だから、この辺は颪(おろし)がよく吹く。今も冷たい颪が吹き抜け灰をさらっていく。
 このまま僕もここで朽ちてしまおうか。風に飛ばされ、宇宙の数多(あまた)の星のひとつになろうか・・・。
 ああ・・・もうどうでもいいや。全部投げ出して、本当に星になりたい。この一粒の砂にでもなってもいい。
 
 もう、生きたくない。
 世界が、真っ暗になる。
 
『俺はお前が好きだ』
 スペル。僕だってスペルが大好きだ。その真っ直ぐな心は、本当に大切な心を教えてくれた。いつだってスペルの心は崩れることも歪むことも知らなかった。羨ましかったんだよ、スペル。僕の、永遠に誇れる友達だ・・・。
 
『レイを殺させはしない』
 シンシア・・・でも、僕は死にたいよ・・・。何もかも失った。大事な人を、大事な村を。
 確かに僕の中で何かが壊れてる音がしてるんだ。このまま屑(くず)になったほうが楽だ。
 
『冗談じゃないって言っとる!さっきからずっと』
 ・・・父さん?
『何もかも全てが真実だ』
 真実ってなんだよ。覚めたら真実じゃなくて夢だ。非現実だ。現実ってなにさ。どこまでが現実で、どこまでが非現実?
 もう現実なんて見たくはないよ。どうせ暗闇しかないんだ。これからどぶの中を浸かって無数の手が底から出てくるような、気味悪いというレベルじゃない道を通らなきゃいけないぐらいなら、
 いっそ死んでしまいたい。
 
 目を覚ましたら夜だった。死んでもなくて、でも心の中は半死半生じょうたいだ。
『お前が生きてなきゃ、この村の苦労が報われないんだ!お前を倒すために魔物が来てるんだよ!お前が殺されたら何にもなんないんだよ!』
 確かスペルはそう言ってたっけ。空虚な脳裏に一瞬だけよみがえったその言葉は、僕をまるで動かそうとしているようだった。
 そうだ。この村が殺されたのは。・・・紛れもない現実。死臭がこびりついたこの荒れ果てた地は、村人の獅子奮迅の後。魔物から・・・勇者という重荷を背負った僕を守るために戦った人々の血がこの血に染み込んでいる。
 今、僕がするべきこと。必ずあるはずだ。
 空の無数の星相手に、僕の口は勝手に喋りだす。
「はぁ。馬鹿みたいだよ、全部。世の中なんてどうでもいいって思ってるのに、使命とかいうのはそれを裏返したやつで。あれだろ。勇者ってやつだろ。僕を殺そうとして魔物が来て、んで僕は死なないでたくさんの人が犠牲になったってだけで。死にたいって思うじゃないか。でも僕が死んだらどーにもならないっていうか、結局心がボロボロのまま右も左もわからないまま生きていかなきゃいけないってのが宿命っていうか、神様は僕の意思なんて無視してて、せめて夢だと思わせてくれたら許してあげたのに、別に村を襲わなくても僕がなんか強力な魔法ぶっ放せるぐらい力があったらいいって思うのに、神様はその力を早くからくれなくて多くの人を犠牲にして・・・」
 言いながら涙が止まらなかった。自分で何を言ってるか全くわからない。
 結局、僕が言いたいのって。
「・・・生きなきゃ」
 それだけだった。何の理由があっても生きて生き延びて、死んでしまった皆の無念を晴らすんだ。
 結局、それだけなんだ。
 
 
 
 
「レイ。ほんとにあたし達が行ってもいいの?たまには感傷に浸かって一人で泣きじゃくっても別に誰も咎めやしないんだから」
「そうそう。マーニャの言うとおりよ。たまには一人になりたいって時もあるでしょ?」
 マーニャとアリーナが反論するけど、僕は首を振った。
「いや・・・。僕一人じゃ何するかわからないから・・・。これはお願いなんだ。一緒に来てくれ」
 ライアンがそれに頷く。
「まあ、レイ殿がそこまで言うなら。と言ってもすでにその道中。断るにもなぁ」
「そうですよ。わたし達はすでに馬車をガタガタ走らせてるんですからねぇ」
トルネコもライアンに同意する。
 そう。村人を弔うといっても簡単な祈り程度のつもりだが、僕のために滅びてしまった村へと足を運んでいる途中なのだ。クリフトなら神官だし少しぐらいは知ってるということで彼にお願いしてもらった。
「でも、ちょっと、一箇所だけ一人にしてほしいところがあるんだ」
 
 あの時と変わってるところと言えばほんの少しだ。
 颪(おろし)のせいで灰や木材が飛び、草木があの時よりも育っているというか、燃える前に戻りつつあるというか。
「・・・酷い。ここまで酷いなんて」とミネアが呟いた。
「げ・・・これ、なんかの骨かい?ったく、しゃあしゃあと転がりやがって。蹴躓いちまった」
「これマーニャ。そんな野卑な言葉を吐くでない。おぬし、おなごだろう」
「女だって男だって子供だってじいちゃんばあちゃんだって使うさ。ブライじいちゃんも使うでしょ?」
「あのな。・・・ああ、もういいわい。全く。若者を相手するのは疲れるのう」
「うわ・・・爺らしい台詞で」
「姫もわしへの反抗期かの?」
 仲間達が会話で盛り上がってるところを、ゆっくりと抜け出した。
 そして、あの記憶の中での花畑へと足を踏み入れた。
 
「ただいま・・・」
 風に乗ってその声は静かに流れてしまった。
 僕の身代わりになって死んでしまったシンシアとの、一番の思い出の場所。
 ここでよく二人で転がり、歌いあった。森から歌声を聞きつけ小動物が集まり小鳥が集まりいつも大盛況だったというのは昨日のことみたいに鮮明に思い出せる。
 あの日、シンシアは僕の変わりに賞金首のように持っていかれた。
 いまだにこの地には血肉と腐臭と残骸が残っているだけ。
「いつか、いつか落ち着いた時に・・・僕はここに戻るよ。今は軽い弔いしかできないけど、いつか立派な墓を立てる。それまでせめて僕の中でだけででも生きてくれよ。父さんも母さんもスペルも長老も、あのデスピサロを入れてきてしまったファブも・・・。僕の中で生き延びていてくれ・・・」
 あの日から泣かないって自分の中で決めてたのに。
 誰もいない何もない場所に語りかけてるというのが、心底虚しく感じたのかもしれない。まだ自分はこんなことで足掻(あが)いてる赤子のような存在だと感じたからかもしれない。
 この村が世界の全てだった。でも今はたくさんの価値観世界観を感じて、あの頃よりも数倍も剣術も魔術も上達した。
 今の自分があの頃の自分だったら。
 想う程涙が止まらない。一度開いた涙腺はそう簡単に閉じることを知らなかった。
 今この場所の荒れ果てたという惨状は他と変わりなかった。今はきっと燃えカスになってただろう花びら達は颪(おろし)に吹き飛ばされ、哀れに地表をさらしている。一方、年月の流れを感じさせるようにいくつかの若草が萌えていた。
「ん?」
 葉の緑でもなく土の茶でもない物体が土に埋まっていた。一部が地から顔を出している。
 なんだろう?土でかなり汚れているが、布のようだった。
 ・・・なんだか既視感に襲われた。見覚えがあった気がした。少ししか見えなくても凄く汚れててもわかるぐらい愛しいもの。
 手で引っ掻き回す。爪の中に砂が入り、どっかの爪が割れた。でもそんなのを気にしないほど無我夢中だった。
「これ・・・!」
 シンシアがよく被ってた・・・羽帽子か?
 よく土を払う。
 ・・・間違いなく、シンシアの羽帽子だ・・・。
『レイ、ほら。泣かないの』
 小さい頃に父さんと喧嘩して木の裏で草むらの中で泣きべそかいてた時、一番にシンシアが見つけてくれた。それでこの羽帽子を目や鼻や口が隠れるぐらい被らされたっけ。
 あの小さい時も襲撃された時も・・・シンシアの姿は全く変わってなかった。歳をとってなかった。
 彼女は人間ではないって感じてる。だって人間とは気が違いすぎる。エルフ族かもしれない。精霊なのかもしれない。
 でもそんなこと関係ない。
 愛し愛されの気持ちは、そんなことで揺らがない。
 ねえ、シンシア。今、君はどこかでこの青く澄んだ空を見てる?同じ空の下、繋がってない空はないんだ。君は青空を見て何をおもってる?
僕はまだ君が愛しいよ・・・。
 シンシア・・・。
 あの日から泣かないって決めたのに。意思に反してこみ上げてくる涙はいつまでもいつまでも止まることを知らなかった。
 颪(おろし)が吹き荒れる。帽子が飛ばされることないように羽帽子を抱いた。
 しっかり抱いて、でも包み込むように。
 
 今は一人じゃない。いいと思うよ。悪くはない。
 たくさんの仲間がいて、お互いに助け合っててさ。
 ミネア、マーニャ、トルネコ、ブライ、アリーナ、クリフト、ライアン。
 皆違って皆いいって聞くけど、そうだなって頷ける。
 皆が違う意見を。違うものを。
 だから大好きだ。全てのものが。
 
 だろ、シンシア?
 
 
 

ドラクエⅣの数少ない(?)とってもシリアスシーンを拝借。

これは男主人公レイの話です。いかがでしたか?

個人的に「生きなきゃ」と言ったレイの台詞に身震いしてほしい。

たくさんの人が死んで、改めて生か死か。Dead or Aliveを感じる瞬間をレイは味わい、心底苦慮してずっと生きてきたんじゃないかな。

ゲーム上では主人公は喋らないから。全てプレーヤーの想像で。プレーヤーの気持ちでしか感じ取れないものかもしれないですが。

だってゲームを“おもしろいか”“おもしろくないか”で判断してる人にとって見たら、別にどういったことでもないでしょ?

ドラクエⅤで父が目の前で殺されるシーン。あそこで何も感じない人だってそりゃいるでしょう。

それってゲームを“ゲーム”としか思ってないからですよね。

感じてほしい。ゲームをする上で一番大切なこと。